助っ人外国人列伝/阪神打者編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。
阪神時代に培った打撃技術で日本経由初のメジャーHR王!セシル・フィルダー
【打者5位】セシル・フィルダー
〈NPB通算データベース〉
・打率 302
・本塁打 81本
・打点 482打点
日本でプレーした初のホームランキング
2023年のMLBは二刀流で無双ぶりを見せた大谷翔平の話題で沸いた1年だった。大谷はシーズン終盤から欠場するも、日本人初となるホームランキングに輝く快挙を達成したが、NPBを経由して初めて同タイトルを獲得したのがセシル・フィルダーだ。
阪神はこれまでに紹介したランディ・バースやトーマス・オマリーなど、NPBで野球の才能が開花した助っ人が多いが、日本を経由してアメリカでも輝いた出世頭といえばこのフィルダーをおいてほかにない。
新人のころから188センチ、110キロの巨体を揺らしたフィルダーは1985年にブルージェイズでメジャーデビューを飾る。持ち前のパワーを活かして4年間で31本塁打を記録したが、チーム事情で代打出場が多く、年俸も満足できるものではなかった。そのためレギュラー出場と高額年俸を求めて1987年に阪神入りする。
しかし、オープン戦でのフィルダーは日本投手の落ちる変化球をブンブン振り回して14打数10三振と散々な結果を残した。バットにボールがまるで当たらない惨憺たる状況に、フロントは早くも後釜探しをしていたという。
自慢の腕っ節で簡単にスタンドイン
オープン戦で日本投手の変化球の多さとコントロールの良さに驚いたフィルダーは、石井晶打撃コーチとフォークやスライダーの変化球対策のフォーム改造に着手する。
結果的にこれが大正解だった。あれだけ空を切っていたバットにボールが当たるようになると、パワーは申し分ないだけに面白いように飛ぶのは当然かもしれない。
オープン戦に比べると見違えるようになったフィルダーは、ペナントでは頼れる長距離砲となり、コンスタントに本塁打を重ねる。とくに横浜スタジアムと相性が良く、場外弾を含む1試合3発など、対大洋戦だけで16本塁打を記録している。
後にインタビューで語っているが、フィルダーはそれまでの一発狙いではなく、変化球にも対応できるようにコンパクトなスイングでライナーになるスイングをイメージしたという。フィルダーほどの腕っ節でボールを捉えれば、日本の狭い球場ならスタンドインというわけである。
このように1989年のフィルダーは、毎試合出場してシーズン半ばに30本を軽くクリアする充実したシーズンを送っていたが、9月の巨人戦で悲劇が遅う。
セ・リーグで唯一苦手としてた巨人戦で三振を喫すると、地面に叩きつけたバットが手に当たって骨折。打率・302、38本塁打、81打点と三冠王が狙える高成績だったが、この骨折でそのままシーズンを棒に振ってしまった。
アメリカに戻ってスーパースターに!
タイトルこそお預けになったが、1年目の高成績に気を良くしたフィルダーは阪神に長期契約を希望する。だが、球団はそれを拒み、ヤクルトを自由契約になったラリー・パリッシュを獲得する報道が流れたことでフィルダーは退団を決意した。
そして翌年にデトロイト・タイガースでメジャー復帰すると、誰もが予想しない活躍を見せる。その成績は圧巻で1990年が51本塁打・132打点、1991年は44本塁打・133打点の2年連続で2冠王の偉業を達成したのだ。
日本に来る前は無名だったフィルダーは、阪神時代に培った打撃技術をメジャーの舞台で存分に発揮し、その後もタイガースの主砲として活躍。
1996年は途中移籍したヤンキースでワールドシリーズ制覇に貢献し、日米通算357本塁打を放つレジェンドに登り詰めている。
なお、2000年代のブルワーズで主力選手だったプリンス・フィルダーはセシルの息子。2007年にプリンスは50本塁打を放ち、親子2代でホームランキングに輝いている。
公開日:2023.12.20