助っ人外国人列伝/バファローズ編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ名選手10名を紹介する。
助っ人外国初の記録を次々と樹立!ロベルト・バルボン
【5位】ロベルト・バルボン
〈NPB通算データベース〉
・打率 .241
・本塁打 33本
・打点 260打点
・盗塁 308個
日本球界に永住したキューバから来た盗塁王
プロ野球とは、それぞれのチームがペナント制覇や日本一を目標にするチームスポーツ。NPBだけに日本人選手がメインとなるプロ野球リーグだが、助っ人外国人もチーム力を高める大切な存在であることは言うまでもない。
しかし、現在では考えられないことだが、昭和中期ごろまでのNPBの主役はあくまで「日本人」という風潮が根強く残っていた。
タイトルを獲らせないようにするための妨害は顕著な例であり、助っ人外国人がどんなに活躍してもプロ野球ファンもどこか「外様」といったバイアスがかかっていたように思える。
そのような状況で阪急ファンはもとより、ほかの球団のファンからも親しまれ、「元祖・愛され助っ人外国人」となったのがロベルト・バルボンだ。
1933年にキューバで生まれたバルボン。多くのキューバ人がそうであったように、バルボンも少ない物資のなかで手作りのグローブやボールを使って野球に興じていた。
キューバ高校で本格的に野球を始めたバルボンは、身長は176センチと比較的小柄ながら瞬足と内野の手堅い守備で頭角を現し、1950年にメジャーリーガーを目指して渡米した。
アメリカでは主にマイナーリーグでのプレーが続いて芽が出なかったが、所属していたインディアンス(現・ガーディアンズ)のスカウトが阪急球団代表と懇意にしていたことでバルボンの移籍話が持ち上がる。バルボンにとって日本は中国や韓国との違いがわからない遠い異国の存在だったという。
助っ人外国初の記録を次々と樹立
日本に関する知識がほぼなかったバルボンは文化の違いを心配し、1年だけプレーしてアメリカに戻るつもりでいた。だが、思いのほか日本の空気が合い、明るく陽気なキャラクターも相まってファンから愛され、1年目からはつらつとした存在感を見せる。
チームのリードオフマンとして瞬足好打を発揮して打率.280、49盗塁を記録。守備では河野旭輝と見事な二遊間を敷き、華麗な併殺網でファンを魅了した。
翌1956年もほぼフル出場して55盗塁の韋駄天ぶりを見せると、1958年から3年連続で盗塁王を獲得。助っ人外国人で複数年連続の盗塁王になったのは、後にも先にもバルボンだけである。
こうして瞬足と守備で阪急を10年間支えてきたバルボンは、1964年に助っ人外国人として初の通算1000安打を達成。また、2007年にタフィ・ローズが更新するまでは、歴代助っ人外国人最多出場数の記録を持っていた。
ただ、バルボンの打率は2割5分を下回るシーズンも多く、出塁率も高いものではなかった。そのためスペンサーが入団すると守備固めに回ることが多くなり、1965年に近鉄へトレードされてしまう。
新天地では5年ぶりに規定打席に到達したが打率は上がらず、このシーズンをもって現役を引退している。
引退後は陽気なキャラでファンに愛された
バルボンが長らく日本でプレーしている間に、祖国ではキューバ革命が起こっていた。そのため自由に帰国することが許されなくなり、日本人女性と結婚していたバルボンは引退後も日本に留まる。
友人の誘いで飲食店を経営する傍ら、阪急のコーチやブーマー・ウェルズなどの通訳を務め、関西のテレビ局・サンテレビジョンのプロ野球中継で第1回目の放送から解説者として出演した。
このときの通訳と解説は、日本人女性と結婚した影響もあってかコテコテの関西弁であり、かなりアバウトだったことから人気を集める。
あるとき、決勝ホームランを打ったブーマーは、ヒーローインタビューで本塁打の感想のほかに、今後の豊富・目標などを詳しく述べたことがあった。バルボンはそれを「ええ当たりやった。明日も頑張る言うとる」とアバウトに通訳し、野球ファンの笑いを誘ったものだ。
引退後も人気を博したバルボンは映画やテレビCMにも出演し、第二の故郷として日本に永住。70歳を過ぎてからもオリックスのイベントに出演したり、少年野球教室などに携わったが、2023年3月に89歳で死去している。
公開日:2024.02.02