1968年:名球会7人の〝奇跡の年〞
ドラフト史上、空前の「当たり年」といえば1968年(第4回)。山本浩司・田淵幸一・富田勝の〝法政三羽烏〞を筆頭に「即戦力」評価の選手がズラリ居並んだ。最大の注目は東京六大学の本塁打記録を塗り替えた田淵。「巨人でなければプロ入りしない」との意思に反し、指名順3位(当時は抽選なし)の阪神が強行指名。すったもんだの末に阪神入りした田淵は阪神の4番に君臨、16年のプロ生活で474本塁打を放ち「ホームランアーチスト」と称された。入団7年目の75年には、王貞治(巨人)の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を放ち、ホームランキングに輝いている。
田淵を阪神に横取りされた形の巨人(指名順8番目)の指名選手は島野修(武相)。「田淵がダメなら指名する」と言われていた星野仙一(明大)が「島と星を間違えたのでは?」と名言を残したのは有名な話だが、この件で「打倒巨人」を胸に刻み、入団6年目の74年に巨人のV 10を阻止するなど「巨人キラー」として通算146勝をマークした。
さて、この年のドラフトがすごいのは、この2人でさえ果たせなかった名球会選手が、なんと7人も誕生した点にある。
あのミスターカープも
史上初の3年連続MVPに輝いた山田久志(富士製鉄釜石)、首位打者2回・打点王3回の安打製造機・加藤秀司(松下電器)、世界の盗塁王・福本豊(松下電器)と阪急黄金時代を築いた3人のほか、西武のエースとして6回の優勝に貢献した東尾修(箕島)、カープを初優勝に導き本塁打王4回を獲得した山本浩司、ミスタ―ロッテと呼ばれた有藤通世(近大)、24年の現役生活で382本塁打を放った大島康徳(中津工)と、錚々たる選手が入団している。
以上9名のほかにも、カープ黄金時代の正捕手・水沼四郎(中大)や阪急の名ショート大橋穣(亜大、東都大学リーグで通算20本塁打の新記録をマーク)、通算121勝をマークした野村収(駒大)、ロッテ時代の82年に20完投を果たしたタフネス水谷則博(中京↓中日)、400勝投手・金田正一の実弟である金田留広(日本通運↓東映)、南海の名内野手として活躍した藤原満(近大)など、時代を築いた一軍選手がズラリ居並んでいる。
前述の福本(阪急7位)や14年間で通算1514安打を放った島谷金二(四国電力・中日9位)、西武黄金時代の巧打者・大田卓司(津久見・西鉄9位)など、下位指名選手の活躍が目立った年でもある。
入団拒否の大砲も
また、当時は入団拒否も珍しくはなく、長崎慶一(北陽・阪神8位)は法大へ進み、門田博光(クラレ岡山・阪急12位)は社会人の野球に留まった。長崎は4年後に大洋から1位指名され入団、82年に首位打者に輝いた。門田は翌年南海から2位指名され入団、NPB歴代3位となる通算567本塁打を放ったが、もしも門田が阪急入りしていたら、巨人の9年連続日本一はなかったかもしれない。
東京(後のロッテ)に9位指名された飯島秀雄(茨城県庁)は東京五輪の100mで準決勝進出を果たした陸上選手であり、球界初の代走専門選手として入団。代走117回、盗塁23、盗塁死17、牽制死5という記録を残し3年後に球界を去ったが、入団初年度の観客は倍増するなど、話題性抜群のドラフト指名であった。
(初出:がっつり!プロ野球15号 記事:小川隆行)
公開日:2018.12.24
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