プロ野球を変えた“三原魔術”の原点【二宮清純 スポーツの嵐】


データ重視
2023年のWBCで、侍ジャパンを3大会ぶり3度目の世界一に導いた栗山英樹が「知将」の異名をほしいままにした三原脩を師と仰いでいることは、よく知られている。いわゆる“没後弟子”である。
三原は、日本のプロ野球で、3球団(巨人、西鉄、大洋)を優勝させた最初の監督である。ちなみに2人目は西本幸雄(大毎、阪急、近鉄)、3人目は星野仙一(中日、阪神、東北楽天)だ。
三原はデータを重視したことでも知られる。打つ手、打つ手がことごとく的中するものだから、“三原魔術”と呼ばれたりもした。
1960年、大洋の監督に就任した三原は、セ・リーグでそれまで6年連続最下位に沈んでいた弱小チームを、いきなり球団史上初のリーグ優勝、日本一に導いた。
エースは、この年21勝(10敗)をあげたアンダースローの秋山登。大洋の投手陣は中日の右の主砲・江藤慎一にてこずっていた。
「ひとりだけ頼む」
三原は試合終盤の勝負どころで、前日完投したばかりの秋山をワンポイントリリーフに使うことがよくあった。手許には両者の対戦成績があり、江藤が秋山を苦手としていることが裏付けられていた。
こうしたデータ野球は、西鉄時代の弟子の仰木彬にしっかりと受け継がれた。仰木は、誰がどの投手を得意とし、どの投手を苦手としているかといったデータを書き込んだメモを、絶えずズボンのポケットにしのばせていた。
それを具現化したのが、仰木野球の代名詞ともなった“猫の目打線”である。打順をコロコロ入れ替えることには批判もあったが、勝負事は結果が全てである。1995年、96年と仰木オリックスはリーグ2連覇を果たした。
三原に話を戻そう。なぜ三原は情に流されず、カンにも頼らず、ある意味で「無機質」とも言えるデータを、采配の中核に据えたのか。
推測だが、それは三原の戦争体験に因をなしていたのではないだろうか。
三原は日本兵だけで3万人が命を落としたと言われるインパール作戦が敢行されていた頃、ビルマ戦線に従軍している。その時、片時も手放さなかったのが、現地の25万分の1の縮尺地図だったというのだ。
上官の命令や自らのカンより、地図という客観的なデータの方が、戦地では信頼に値する――。そうした確信が、データ重視の“三原魔術”を生み出したのではないか。今後、検証が待たれるテーマである。
初出=週刊漫画ゴラク10月10日発売号