上座部仏教と大乗仏教の違いとは!?
厳しい修行が課せられるものと寛容なもの
ブッダは当初、主にインドの北部を中心に布教を行なっていましたが、しだいにインドの西部や南部にまでその範囲を拡大していきます。布教にあたって幸運だったのは、古代インドを統一した*アショーカ王という庇護者(ひごしゃ)を得たことでした。こうして紀元前3世紀ごろには、仏教はインド全体に広がっていきました。
しかし、その時代になると、戒律の解釈をめぐって内部での対立が生じてきました。いろいろな対立点があったとされますが、金銭によるお布施(ふせ)を認めるかどうかも、大きな論争を巻き起こしたようです。このような争いによって、教団内は二派に分裂していきます。
長老を中心として、ブッダ以来の戒律を守ろうとする「上座部(じょうざぶ)」と、戒律に寛容(かんよう)で進歩的な考えの「大衆部(だいしゅぶ)」の二つの派がそれで、これを「根本分裂」といいます。後者は、のちに「大乗仏教(だいじょうぶっきょう)」となっていきます。
この二つの違いはどこにあるのでしょうか。
まず、上座部仏教は出家主義(しゅっけしゅぎ)で、出家者個人が自らの悟りを開くことを目的としています。つまり、修行をして悟りを開いたものだけが救われるというわけです。
そのためには厳しい修行にも耐え、戒律を厳しく守る必要があります。
これに対して大乗仏教は、出家主義をとらず、在家でもブッダの教えを守っていれば、ふつうの生活を送ってよいとされました。
また大乗仏教は、仏(ほとけ)や菩薩(ぼさつ)の慈悲(じひ)による民衆の救済が強調されるのも、大きな特色です。
仏教はどのようにして広まっていったの?
上座部仏教は南、 大乗仏教は北へと伝わった
戒律に厳しい上座部仏教と、大衆に受け入れられやすい大乗仏教―。それぞれは、どのようなルートを経て広まっていったのでしょうか。
上座部仏教は紀元前3世紀、インドからスリランカに伝えられ、王族の庇護を受けて大いに発展します。さらに、インド東部の陸路を経由するルート、スリランカから海路を経由するルートにより、ミャンマー、タイ、カンボジア、マレーシアなどの東南アジア全般に伝播しました。
これを「南伝仏教(なんでんぶっきょう)」と呼んでいます。
タイやカンボジアなどで、鮮やかな法衣(ほうい)を身にまとった僧が*托鉢(たくはつ)を行なう様子をよく目にしますが、彼らは出家主義と厳しい戒律のもとで修行する上座部仏教の僧侶なのです。
大乗仏教はまず、インド北部からガンダーラ地方(現在のパキスタン北西部)に伝えられます。ここは、現在では人口のほとんどがイスラム教を信奉する地域ですが、仏教に関連した遺跡もたくさん残っています。
ガンダーラから中央アジアの国々を経て中国に伝わります。中国は仏教国というイメージが強いのですが、伝来したのは紀元1世紀ごろとされています。
そして、朝鮮半島、日本、台湾などに伝播していきます。これを「北伝仏教(ほくでんぶっきょう)」と呼んでいます。
この一方で、仏教を生んだ国、インドはどうなのでしょうか。インドでは、ヒンドゥー教が仏教以前から盛んで、民族宗教ともいわれています。さらにほかの宗教からも圧迫され、現在では仏教徒は総人口の1%にも満たないほどです。
日本に伝来したのち、仏教はどう発展した?
聖徳太子以降、国家の保護下で大きく発展
我が国への仏教伝来については、538年説と552年説があります。
公的に日本に仏教を伝えたのは、朝鮮半島にあった百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)であるといわれています。聖明王は、当時の欽明天皇(きんめいてんのう)(509〜571年)に仏像や経典、仏教論書などを贈りました。
仏教の受け入れに関しては、豪族の蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)の争いが展開されていきます。
「海外諸国で崇拝されているのに、わが国だけとり入れないことなどできない」
という蘇我氏の形勢が徐々に優位となり、推古天皇(すいこてんのう)(554~628年)の時代になって、いよいよ本格的な仏教の受容(じゅよう)・浸透期(しんとうき)を迎えることになります。その中心的な役割を担ったのが、*聖徳太子(しょうとくたいし)(574〜622年)です。
太子は、まず「三宝興隆の詔(さんぼうこうりゅうのみことのり)」を発して、平和な国家を建設するために仏教を広めることを宣言します。そして、604年に制定した「十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)」には、「篤(あつ)く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり……」とあり、仏教へ深く傾倒していたことがわかります。
また、遣隋使(けんずいし)として学僧を中国へ派遣して仏教思想や仏教文化を導入したほか、寺院も次々と建立します。四天王寺(してんのうじ)、法隆寺(ほうりゅうじ)、中宮寺(ちゅうぐうじ)、広隆寺(こうりゅうじ)などの建立に太子が関係したといわれています。
以降、奈良時代にかけて仏教の国教化とも呼べるほどの、国家による庇護が進んでいきます。聖武天皇(しょうむてんのう)(701~756年)による東大寺大仏(とうだいじだいぶつ)の造立(ぞうりゅう)、国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)の設置など、国家事業としての仏教関連政策が相次いでいったのです。
仏教の各宗派はどのようにして興った?
奈良・平安・鎌倉の各時代に多くが誕生する
奈良時代に入ると、苦難の末に日本にたどり着いた中国の僧、鑑真(がんじん)(688〜763年)が孝謙天皇(こうけんてんのう)(718〜770年)の勅命(ちょくめい)により、東大寺(とうだいじ)に*戒壇(かいだん)を築き、僧への受戒制度(じゅかいせいど)を整備しました。受戒というのは、入信希望者に対して戒律に従うことを約束させる儀式で、これによって真剣に仏教に取り組もうとする者だけが、僧として認められるようになりました。
この動きと呼応するように、奈良の都に「南都六宗(なんとろくしゅう)」という宗派が形成されていきます。法相宗(ほっそうしゅう)・三論宗(さんろんしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りっしゅう)という六つの宗派です。いずれも中国で大成されたものが渡来したのですが、宗派といっても、宗派間の垣根はあまり高くなく、複数の宗派を学ぶ者も多数いたようです。
平安時代になると、ともに中国で学んだ僧の最澄(さいちょう)が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を拠点に天台宗(てんだいしゅう)を、空海(くうかい)が高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)を拠点に真言宗(しんごんしゅう)をそれぞれ開き、新しい仏教が成立していきます。さらに当時は、飢饉、大火、地震などが頻繁に起こり、人々の心を不安にしていきました。このため、ひたすら念仏(ねんぶつ)を唱えることで極楽浄土(ごくらくじょうど)への往生(おうじょう)を願う、浄土信仰(じょうどしんこう)が急速に拡大していきました。
この浄土信仰から、法然(ほうねん)による浄土宗(じょうどしゅう)、さらに時代が下って親鸞(しんらん)による浄土真宗(じょうどしんしゅう)(一向宗=いっこうしゅう)が生まれ、広く民衆から支持されます。
禅宗(ぜんしゅう)が登場したのが鎌倉時代です。栄西(えいさい)の臨済宗(りんざいしゅう)、道元(どうげん)の曹洞宗(そうとうしゅう)が、新興勢力である武士階級を中心に広まります。また、日蓮(にちれん)による日蓮宗(にちれんしゅう)、一遍(いっぺん)による時宗(じしゅう)も同じころに現れました。
【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 世界の宗教』
監修:星川啓慈 日本文芸社刊
執筆者プロフィール
1956年生まれ。1984年、筑波大学大学院哲学・思想研究科博士課程単位取得退学。1990年、日本宗教学会賞受賞。現在、大正大学文学部教授。博士(文学)。専門は宗教学・宗教哲学。主な著書に、『言語ゲームとしての宗教』(勁草書房、1997年)、『宗教と〈他〉なるもの』(春秋社、2011年)、『宗教哲学論考』(明石書店、2017年)、『増補 宗教者ウィトゲンシュタイン』(法藏館、2020年)など。
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公開日:2022.04.25