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北京・ロンドン五輪出場のオリンピアンから外資PR会社のコンサルタントに。道なき道を進んで得た、バドミントン・池田信太郎のキャリア

北京大会とロンドン大会の2度、バドミントン日本代表としてオリンピックに出場した池田信太郎さんは現在、米国を本社とするグローバル大手PR会社フライシュマン・ヒラードの日本法人スポーツ&エンターテーメント事業部で、2018年からシニアコンサルタントとして働く。6年前まで世界を転戦するトップアスリートだったことを忘れさせるその論理的な話しぶりとたたずまいには、日本バドミントン界初のプロ選手として険しい道を切り開いてきた苦労と経験があった。

「山手線一周」より早く終わった北京五輪

池田さんは、2008年北京五輪では男子ダブルス、2012年ロンドン五輪では混合ダブルスと、2大会連続で出場した。五輪ではメダルこそ取れなかったものの、世界選手権では男子ダブルスで日本勢初の銅メダルを獲得。また、全日本総合バトミントン選手権大会では3回優勝(男子ダブルス2回、混合ダブルス1回)を誇る実力者だ。さらに、2009年に日本バドミントン界初のプロ選手となるなど、新たな道を切り開いてきた。

今でこそ桃田賢斗選手を始めとして、バドミントンは注目されることが増えたが、池田さんが現役だった約10年前は、バドミントンがメディアで大きく報道されることは少なかった。辛うじて、女子ダブルスの人気コンビだった小椋久美子さんと潮田玲子さんの“オグシオ”ぐらいだろう。池田さんは潮田さんと“イケシオ”ペアを組んでロンドン五輪に出場している。

決して注目度が高くなかったバドミントンでプロの道を選ぶというのは、当時の状況を考えるとリスクにも思える。所属していたのは、バドミントン国内屈指の実業団チームであり、東証一部上場の日本ユニシス。引退後は社員として働き、安定した収入を得る選択肢もあった。しかし、リーマンショックで不況の嵐まっただ中、池田さんはプロ選手の道を選んだ。

当時の決断の背景は、モチベーションだったという。

「北京五輪には、JOCからアスリートAランク(メダル獲得の高い有望選手)として支援を頂いて挑戦しました。自分たちなりにはメダルのチャンスもゼロじゃないと思っていた。準備も良かったけど、結果的には良い試合ができずに1回戦で敗退。30分にも満たずに、僕たちの“夢の舞台”が終わった。山手線を一周するより早いですからね(苦笑)」

日本バドミントン界初のプロ選手に

北京での現役引退も選択肢にあった。選手生活の集大成だったはずが、一瞬で敗退したのだから頷ける。放心状態の池田さんがアテネ大会にも出場した先輩アスリートに負けを伝えると、「4年は本当に早い。きちんと準備すれば4年が経つのはあっという間だから、もう1回、目指してみたら」と声を掛けてくれた。それでも、ここまでの厳しい道のりを再び同じペースで目指すのは難しいと感じたという。

再びオリンピックを目指すための大きなモチベーションとは何か?自分なりに悩んでたどり着いたのが、日本バドミントン界初のプロ選手という選択肢だった。当時池田さんは28歳。次のように振り返る。

「所属企業で働きながら選手としてやっていくより、自分が頑張らなきゃいけない立場に身を置かないとモチベーションを保つのは難しいと思いました。新しいことにチャレンジすることで、自分をリセットできる。プロになることで終身雇用を捨てることになりますが、プロになって、自分で時間をうまく使いながら次の4年間に成長する努力する。それが自分の中での答えでした」

バドミントン界では前例がない上に、野球やサッカーなど一部の競技を除いて、オリンピック競技を目指すアスリートがプロになるのは、当時はまだ珍しかった。

「めちゃくちゃリスクでした(苦笑)。今はアスリートの価値観が変わってプロになる選手が多いですが、当時は為末大さん(400メートルハードルで五輪3大会出場)などごくわずか。僕らの先に歩いていた人がいるわけでもないし、何が正解かもわからない。でも、バドミントン界で誰もいないところを歩いてみたいと思ったんです」

実業団選手は引退すれば、企業に残って社業に専念するのが当たり前の時代。まだ現役を続けたくても、その後のキャリアを考えれば30歳前後で引退して社業を始めた方が良い。池田さんは会社の先輩からそうアドバイスをされた。

「企業で働かずに自分で飯が食えるか、自信があるかわからなかった。ただ、できるできないではなく、『飯を食っていくんだ』と」

結果的に、この選択がその後のセカンドキャリアでの礎にもつながっていくことになる。

「(プロになり)自分が興味をもったのは、自分という人間がマーケットに出た時、どれくらい市場価値があるのかということ。アスリートの価値を測りたかった。マーケットに出てて何を対価に求められるか。現役競技者としてやりがいとなる一つの理由でした」

プロ選手として活動することで、モチベーションを高めた結果、ロンドン五輪に出場することができた。

ロンドン五輪後に待ち受けた苦難

ところが、ここから茨の道が待っていた。2012年のロンドン五輪後、引退の道もあったが現役続行を選んだ。池田さんは笑いながら振り返った。

「やっぱり男子ダブルスがすごく好きで、あのスピード感をまたやりたいと思ってしまったんです」

しかし、本人が競技を続けるにしても、スポンサー企業がつくかどうかは別の話。それまでメインのスポンサーであった日本ユニシスとは2013年3月末で契約終了となった。そこから約1年、スポンサーがつかずに選手活動を行うことになってしまった。

「その当時でも男子ダブルスでそんなに負けることはなかった。でも、どうしても企業は五輪(4年)のスパンで考えます。(4年後には)36歳になる僕とはやはり契約できないと言われました。すごく悔しかった」

同じようにスポンサー獲得に苦しんだ経験を持ち、親しかった競泳の松田丈志さんにも相談した。

「たけちゃん(松田さん)にどうやった?と尋ねると『僕は500通、企業に手紙を書きました。そのうち連絡がきたのは5つです』と言ったんですよ。僕には100通も書けない、難しいなと思いました。たけちゃんと話していて、やはり確度の高いところに行かないと当たらないという話になった」

そこで、より本格的にビジネスについて考え始めたという。

「自分で資料を作りながら、どうやったらスポンサーを獲得できるかに、時間をすごく使いました。どうすれば自分の今の価値を企業が評価してくれるのか。常に考えては紙に起こしました。売る商材は自分。自分という人間をどう売るかを一生懸命考えた1年でした」

自ら作ったパワーポイント資料と知人に作ってもらった名刺を持って、30社ほど回った。最終的に、エボラブルアジア(現在のエアトリ。東証一部上場の旅行事業会社)と所属契約を結ぶことができた。

難局を乗り越え、池田さんは、外国人選手とダブルスを組みながら試合に出場。最終的に2015年に現役を引退した。

「五輪代表選考レースの苦しさとはまた違う苦しさがあって。五輪出場を勝ち取るより、スポンサーがつかない状況をどうしたらいいのかと悩んだ時間の方が多かった。ビジネスを学び、多くの人とも知り合えました。度胸もつきましたね」

この期間に回った企業の中の一つにDeNAがある。当時社長だった南場智子氏にスポンサードの提案をしにいった時は、池田さんの強烈な思い出となり、励みになったそうだ。

「スポンサーを探し回っている時はすごく不安で、自分がこんなことを話していいかもわからなかった。南場さんとの話を合わせるために、著書『不格好経営―チームDeNAの挑戦』を一日で読み込みました。そして前日までにキーノートで資料を作ったんです。

当日、資料の印刷でキンコーズに行ったのですが、出力するとどうやっても資料が半分に切れる。何度やっても上手くいかずに、時間が迫り、結局、その半分に切れた資料を南場さんに渡して詫びました。でも南場さんは『全然それでいいよ。頑張る人を応援したいから』と背中を押してくれました」

現役を引退後、今でも南場さんとの交流は続いている。

引退後に選んだ、PRコンサルタントの道

そんな時、一般財団法人UNITED SPORTS FOUNDATION代表理事の諸橋寛子さんにスポーツマーケティング講座の受講を薦められて通い始め、1年間、月1回のペースで学ぶ中でマーケティングの面白さに気づいていった。

「ビジネスモデルキャンバス(BMC)を用いてビジネスモデルを作るとか、マーケティングなどについて勉強したのですが、すごく面白かった。朝6時から部屋でポストイットを張りながら、コンビニのビジネスモデルや飲食事業のビジネスモデルなどを考えていました。スポーツのコンテンツもこう価値を作っていけたらと思っていた時に、その講座を通してフライシュマン・ヒラードから声がかかりました」

世界的なPR会社で、池田さんは、コミュニケーション戦略の構築やコンテンツ開発を行っている。企業価値を高めるため、いかに企業ブランドを構築するか。社会の共感・関心を醸成する文脈をどう作るか。企業が持つサービスやプロダクトをいかに人々に訴求できるか。そしてレピュテーション(評判)をどう得ていくか。池田さんはPRのプロフェッショナルとして奔走している。

「一方的に自社のプロダクトが素晴らしい、と企業が発信しても伝わりません。現在は“塗る時代”から“塗られる時代”へシフトしており、企業は世論から評判(レピテーション)をどう上げていくかが重要な時代になってきました。誰かに発信してもらったり、発信の仕方やメッセージを変えたりとコミュニケーションの構造を変えていく。このストラテジー(戦略)を僕たちが考えています」

現在、6、7社のクライアントを抱え、直近で取り組んだのが、東京スカイツリー。持続可能な開発目標「SDGs」の推進を目的として、国連創設75周年となった昨年、東京スカイツリーをSDGsの17色で点灯した。

「スカイツリーは日本を象徴するようなランドマークですが、634mという高さだけが価値ではない。(立地する)東京の下町は歴史と文化の交差点で、このような象徴的なタワーはどこを探してもありません。この価値の本質をどのようにしてグローバルにコミュニケーションしていくか。時間をかけて深掘りしていきました」

実は筆者の自宅は東京スカイツリーの近くにある。毎晩、スカイツリーの色を見ることが日課になっていた。東京の下町に建つ巨大な電波塔が、普段と違う色に変わると、どんな意味合いがあるのかと考えさせられた。池田さんたちの仕掛けがここにある。

現在の池田さんは仕事にのめりこり、時には睡眠時間が2、3時間になるほどの激務になるほど。それでも、クライアント企業の課題解決に向けて進めていくことが「毎回達成感があり楽しい」と話す。

セカンドキャリアではなく、「転職」

バドミントンの世界から広報・PRの世界へ転じ、セカンドキャリアを順調に歩んでいるように見える。しかし、池田さん自身は“セカンドキャリア”とは思っていない。

「セカンドキャリアというより転職だと思っています。バドミントンという仕事から新しい仕事へ転職したんだと」

その過程で学んだ重要なことが、能動的に動くこと。スポンサー探しで苦しんだ時に身に沁みた。

「いざ人と会うにしても、メールしなきゃ会うことさえできない。名刺交換をして、『良いビジネスモデルですね!連絡します!』と言われても、大抵メールなんてこない。自分からアクションをしないと何も起こりません。スポーツでも同じです。人から『練習しろ』とやらされている限り、自身の課題なんて意識すらしない」

キャリアも同じで、自分自身の課題を見つめて向き合い、自ら動き出さないとセカンドキャリアが中途半端になってしまうと池田さんは指摘する。

「引退後のキャリアで現役時代と同じぐらいエモーショナルな体験ができるかというと、できない。スポーツでしか味わえない経験ですから。僕は『宝物は箱に入れて、どこかにしまっておきなさい』と思います。たまに思い出として、パカッと開けて、『素晴らしかったな』と懐かしめばいい。でもそれは既に過去の物で、今は(仕事で)戦わないといけない」

五輪出場の経験を褒められても仕方がない。資料を作れるのか、プロジェクトやタスクの管理、部下のマネジメントができるのか。「五輪出場」の肩書きだけでは社会で戦える武器にならない。

「五輪に出た経験を馬力として使いながら、社会の荒波でも漕いでいく能力が必要です。その馬力でアクティブに動かないと、キャリアで壁にぶちあたる。自分から行動しないと、実現できません」

ビジネスパーソンへの華麗な転身は、池田さんが自ら動くこと、考えることを実行し続けた結果なのかもしれない。

書き手:大塚 淳史
報知新聞社『スポーツ報知』にて運動部で高校野球、Jリーグ、大学スポーツ、文化社会部で芸能、事件などを担当した後、中国・上海で5年間在住。現地の日本語フリーペーパー、中国メディアのオンライン日本語版や電子雑誌、日本の繊維業界紙上海支局で勤務の後、帰国。日刊工業新聞を経て、2016年からフリーランスライターとして活動。週刊朝日、AERA dot.、Bussiness Insiderなどでも執筆している。

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