プロ野球妄想年俸
本サイトや雑誌「がっつり!プロ野球」(日本文芸社)でも好評を博した『球界のレジェンド、今なら年俸はいくら?』。昭和のレジェンド選手が、もし令和の現代プロ野球界でプレーしていたら、一体年俸はいかほどか――。そんな“妄想”だけで綴る当企画。今回は阪神タイガースの日本一を祝うという意味で「ミスタータイガース」こと掛布雅之の「妄想年俸企画」第2回(プロ4年目以降)をお届け!
掛布雅之はプロ6年目での年俸3億円到達!
⚫︎掛布雅之/阪神タイガース
3年目にレギュラーとしての地位を過去たるものとした掛布雅之。4年目となる1977年は田淵幸一、ブリーデン、ラインバックらと強力打線を形成する。開幕当初は「6番サード」が指定席だったが、6月以降は3番に定着。打率.331、23本塁打、69打点で前年に続き、2年連続でベストナインに選出された。ちなみに、この年のOPSも.986(リーグ6位)と高水準をキープ。上位には王貞治(1.183)、山本浩二(広島/1.102)、マニエル(ヤクルト/1.093)、若松勉(ヤクルト/1.008)、柳田真宏(巨人/.992)といった球界を代表する打者が名を連ねたが、全員が30歳前後の“全盛期”(王は37歳)。そんな中で22歳の掛布雅之が上位に食い込むのだから驚きだ。
本塁打23本はやや物足りなく思えるかもしれないが、OPSが示すように打者としての能力はリーグトップクラス。そのため、翌年の妄想年俸も前年からさらに倍増の1億8000万円と算出させてもらう。
1978年、掛布雅之プロ5年目。この年は開幕から3番サードにほぼ固定され、「掛布雅之・田淵」の3、4番コンビが躍動。掛布雅之は9月からは4番を任され、自身初の30発となるシーズン32本塁打。一方の田淵も38本塁打をマーク。2人だけで実に70発を量産するが、チームは開幕から低迷し、優勝したヤクルトに30.5ゲーム差を付けられて最下位に沈む。阪神にとってはこれが実に29年ぶり、2リーグ制以降では初となる最下位だった。
これを受けてチームは大胆な改革に着手。後藤次男監督はわずか1年で退任。オフには田淵が古沢憲司とともに西武へと放出された。田淵の移籍により、掛布雅之は文字通りチームの“顔”に。チームは最下位だったが掛布雅之自身の打撃成績は変わらず球界トップクラスであり、当然年俸もさらにアップするはず。現在であればプロ6年目にして3億円の大台に乗っていたはずだ。ちなみに、プロ6年目での年俸3億円到達はダルビッシュ有(日本ハム)、田中将大(楽天)、村上宗隆(ヤクルト)に並んで最速タイ記録になる。
1979年、プロ6年目を迎えた掛布雅之は、キャリアハイのシーズンを過ごすことになる。前年同様、「3番サード」を指定席に、122試合、打率.327(リーグ2位)、48本塁打(リーグ1位)、95打点(リーグ3位)。打撃3部門すべてトップ3入りというすさまじい数字を残し、自身初となる本塁打王を獲得。シーズン48本塁打は藤村富美男の46本塁打を更新する球団記録となった。この48本塁打はのちにバースによって破られるが、2023年終了時点の現在も、球団の日本人最多本塁打記録に君臨している。
また、このころからサードの守備も評価されるようになり、前年に続いて2年連続でダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)に輝いている。ちなみにこの年はキャリアを通じて唯一の2ケタ盗塁となるシーズン10盗塁を記録。まさに「走攻守3拍子揃ったスーパースター」の座を確固たるものとしたシーズンでもあった。
こうなると、この年3億円に到達していた妄想年俸はさらに跳ね上がる。三冠王レベルの打撃成績を残しただけに、現役選手で言えば2022年に三冠王&56本塁打をマークしたヤクルトの村上と同額の年俸6億円は堅いだろう。現代であればこのあたりから徐々にフリーエージェント(FA)の影がちらつく時期。契約更改にも、それは大きく影響してくるだろうと読んでの妄想年俸倍増とさせていただいた。
公開日:2023.12.22