助っ人外国人列伝/メジャー出戻り大活躍編
日本で学んで、メジャーで覚醒!?
今回の助っ人外国人列伝は、メジャーとは異なる独自の「日本野球」を経験した後、メジャーに戻ってさらに飛躍する選手が増えている。ここでは、そんな「出戻り大活躍選手」を紹介。
日米のタイガースで大活躍!記憶に残る長距離砲打者!!
セシル・フィルダー
NPB通算成1年:(1989)
NPB通算 (1年)106試合 打率.302 38本塁打 81打点
MLB通算 (13年)1470試合 打率.255 319本塁打 1008打点
1989年の来日当初、フィルダーは日本人投手の繰り出す変化球に手も足も出ない日々が続いた。それでも、当時の村山実監督は辛抱強く起用。やがて、少しずつ変化球打ちをマスターしたフィルダーは本塁打を量産。外国人助っ人に泣かされ続けていた阪神ファンは「バースの再来や!」と歓喜の声を上げたものだった。しかし、シーズン終盤の9月4日、巨人・水野雄仁から三振を喫した際に、怒りのあまり叩きつけたバットが右手小指に当たり骨折。シーズンを棒に振ることに。この年、パ・リーグの本塁打王に輝いたラルフ・ブライアントよりも高い長打率を誇り、セ・リーグホームラン王を狙える位置につけていただけに、何とも痛い「小指の思い出」となった。この年の好成績を受けて、阪神は5年契約を提示するものの金銭面で折り合いがつかず、1990年からフィルダーはデトロイト・タイガースでメジャー復帰。わずか1年限りの日本球界在籍だったが、その豪快な打撃、小指骨折というマヌケな事件で、今でも多くのファンの記憶に残っている。
その後のフィルダーの人生は実に波乱万丈だ。メジャーに復帰した。1990年には50本塁打、132打点で二冠王を獲得。さらに翌1991年も二冠王となり、一気にメジャーを代表するスラッガーとなった。当時、日本からの出戻りだったガリクソンも在籍していたタイガース監督スパーキー・アンダーソンは「日本製品はすばらしい」と手放しで絶賛。また、自動車産業において日米の貿易摩擦が社会問題化していたこともあり、フィルダーについて「デトロイトが受け入れた唯一の日本製品」と称されたこともあった。その一方で、少しでも不振に陥るとオーバーウェイト気味の体型を揶揄され、「スモーレスラー」とブーイングを浴びることもあった。1998年限りで現役を引退した後も、長男のプリンス・フィルダーの代理人としてフィルダーの名前はしばしば日本でも報道された。その一方で残念なニュースもあった。2004年、「フィルダーがギャンブルで莫大な借金を抱えて自己破産。最愛の妻とも別れて消息不明に」と報じられて多くのファンを心配させたが、その後、独立リーグの監督を務めるなど、社会復帰を実現している。
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公開日:2020.07.15