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シーズン42勝は今後破られることのない日本プロ野球記録!ヴィクトル・スタルヒン

Text:橋本雅生

助っ人外国人列伝/巨人投手編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。

前人未踏のシーズン42勝で日本プロ野球記録樹立!ヴィクトル・スタルヒン

【投手1位】ヴィクトル・スタルヒン

〈NPB通算データベース〉
・勝利 303勝
・敗戦 176敗
・防御率 2.09

ロシアからやって来た伝説の助っ人投手

今季もエース候補とされながら0勝に終わったタイラー・ビーディやWBCパナマ代表のアルベルト・バルドナードなど、巨人にはこれまでに数多の助っ人投手が入団している。そのためランキングの選定が難しかったが、栄えある第1位は無国籍の大投手であるヴィクトル・スタルヒンとした。

その伝説の大投手・スタルヒンの人生は壮絶なものだった。1916年にロシアで生まれたスタルヒンは、ロシア革命の際に一族に王党派がいたため、革命政府から迫害されて家族とともに北海道の旭川に亡命してきた。

身長191センチと恵まれた体格だったため、旭川中(現・旭川東高)の投手として注目されたが、父が殺人罪に問われて中退。当時、日本にプロ野球はなく、大日本東京野球倶楽部(現・巨人)に参加し、日米野球に出場後の1936年に巨人に入団した。

「2階の屋根からボールが急降下する」と評されたスタルヒンの直球は迫力があり、1年目の大東京戦にリリーフで登板し、無失点に押さえて巨人の公式戦初勝利に貢献した。なんとスタルヒンは、巨人の歴史を刻んだ初勝利に一役買っていたのだ。

今後も破られることがない前人未踏の42勝

こうしてプロ野球黎明期の外国人投手として頭角を現したスタルヒンは、翌年になるとシュートやシンカーなどの変化球を身に付け、剛速球を軸に巧みな制球力で勝ち星を重ねる。

1937年は史上2人目のノーヒットノーランを記録すると、この年は28勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得。この頃になると伝説の大投手・沢村栄治に代わって巨人のエースとなり、圧倒的な投球で打者を封じる無双っぷりはますます拍車がかかった。

1938年には開幕投手で開幕11連勝を挙げて、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振の総なめにした33勝、翌1939年は日本プロ野球記録となるシーズン42勝を挙げたが、これはチームの勝利数66勝の3分の2に相当するとんでもない数字だ。

巨人入団後、わずか数年で瞬く間に球界のスターダムに登り詰めたスタルヒン。数え切れないほどのタイトルを獲得し、165試合目で100勝到達と怪物ぶりを見せていたのだが、当時の社会情勢がスタルヒンに暗い影を落とすことになる。

戦争に翻弄されて巨人から追放処分に

当時の日本は泥沼の日中戦争が続き、太平洋戦争目前の不安定な社会情勢だった。スタルヒンは無国籍だったが外国籍者として扱われ、太平洋戦争が始まると、名前を「須田博」に改名させられてしまう。

また、ロシア出身のスタルヒンはスパイ容疑をかけられるなど不当な差別や軟禁生活を強いられ、1945年にソビエトが日ソ中立条約を破ったことで遂には巨人から追放されてしまった。

巨人から追われたスタルヒンは戦後に進駐軍の通訳を務めていたが、藤本定義の誘いでパシフィックにて球界に復帰する。しばらく野球を離れて別人のように太ってしまい、かつてのような投球ができなくなってしまったが、1949年は27勝を挙げて6度目の最多勝に輝いた。

以降は複数の弱小球団を渡り歩いて現役を続けて通算303勝を記録したが、7勝に終わった1955年に現役を退いた。引退後、ラジオ番組の司会や妻が経営する美容院の手伝いをしていたスタルヒンは、1957年に運転していた車が路面電車に追突して死亡。原因は飲酒運転とも自殺とも言われているが、真相はいまだに謎のままである。

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