助っ人外国人列伝/阪神打者編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ投打の名選手各5名と、印象深い選手を投打から各1名紹介する。
卓越したバッティング披露するも阪神が突然の戦力外にしたトーマス・オマリー
【打者3位】トーマス・オマリー
〈NPB通算データベース〉
・打率 315
・本塁打 123本
・打点 488打点
日本に来ると水を得た魚のように大活躍
太めの体格で頭も大きいのになぜか小さいサイズのヘルメットをかぶり、ガムを噛みながら左のオープンスタンスで快音を連発。そうたとえると古い野球ファンならすぐわかるのがトーマス・オマリーだ。
NPBに在籍した6年間はオール3割クリアの確かな打棒、そして流暢な関西弁のヒーローインタビューは多くの虎ファンから愛され、今も記憶に色濃く残る。
日本では優良助っ人外国人として知られるオマリー。だが、アメリカではMLBドラフト16位で1979年にジャイアンツ入りするも、メジャーで活躍したのは1982〜1983年の2年間のみ。その後はホワイトソックスやオリオールズなど計6球団を渡り歩くも、目立った成績は残せていない。
だが、日本の野球とよほど水があったのか、1年目から外国人助っ人には珍しいコンパクトなスイングから安打を量産。チャンスに強い安定感抜群の中距離ヒッターとして活躍し、打率・307、21本塁打、81打点と高成績を残した。
確かな選球眼と卓越したバッティング技術
当時、阪神はBクラスが定位置の冬の時代真っ只中。クリーンアップを任せられる日本人選手がいないなか、1992年のオマリーは、大洋から移籍してきたジム・パチョレックとともに虎打線を牽引し、初年度と同様の頼もしい打撃を披露した。
オマリーは選球眼が良く、投手の配球を読むことに長けていたが、結果を残せた理由はそれだけではない。軸足を後ろに引きながらうまく体重移動して最後までスイングするフォームは芸術的であり、左右どちらの投手でうまく対応できる卓越したバットコントロールで安打を量産していたのだ。
来日2年目にして虎ファンの心を掴んだオマリーは、ヒーローインタビューの時の「ハンシンファンワ、イチバンヤ!」が決まり文句となり、明るく茶目っ気たっぷりのキャラは今も忘れられない。
なお、1992年の阪神は久しぶりのAクラス入り(2位)を果たしたが、両助っ人外国人の存在なしにこの結果は成し得なかっただろう。そして1993年も好調を維持したオマリーは、横浜のロバート・ロバーツとシーズン最終戦まで首位打者争いを演じ、打率・329で念願の首位打者に輝いている。
打線の中核として堂々たる結果を残し、ファン人気も上々。こんな優良助っ人外国人はなかなかいないのだが、1994年のシーズン後にオマリーは突然の戦力外通告を受けた。
理由は「34歳の年齢」と「長打力不足」とされたが、オマリーは4年連続2桁本塁打を放ち、長打より確実性のあるチームバッティングをしてきた。そのため虎ファンが署名活動を行うなど憤ったことは言うまでもない。
その実力に衰えはなくヤクルトで大暴れ
結局、この退団騒動はオマリーの強い希望でヤクルトに移籍して決着。すると虎ファンの悪い予感は的中し、野村克也監督のもとで阪神を見返すような長打を連発し、キャリアハイの31本塁打を放ってヤクルトのペナント制覇の立役者となっている。
ちなみにこの年の日本シリーズは打者5冠を達成したイチローのオリックスと対戦したが、オマリーは試合を決める2本塁打などの活躍でシリーズMVPを獲得。ペナントレース、オールスター、日本シリーズの3つでMVPに輝いた助っ人外国人はオマリーだけである。
引退後のオマリーはアメリカ独立リーグ・ベアーズの監督を経て、2002年からは阪神の臨時コーチや駐米スカウトなど歴任。現在は自宅のあるペンシルベニア州で少年野球チームとソフトボールチームのコーチとなり、選手育成に育んでいる。
公開日:2023.12.30