助っ人外国人列伝/中日ドラゴンズ編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ選手を紹介する。
王貞治&ランディ・バースと並ぶ1試合2本塁打以上を10回記録!ジーン・マーチン
【3位】ジーン・マーチン
〈NPB通算データベース〉
・打率 272
・本塁打 189本
・打点 498打点
移籍したハワイの球団で与那嶺要がスカウト
今年で創設88年の歴史ある球団ながら、1937〜1960年まで助っ人外国人を獲得してこなかった中日。長らく日本人純血を守ってきたが、1954年の初優勝からペナント制覇をすることができなかったことで、1960年代から助っ人外国人が入団するようになる。
さて、今回紹介するジーン・マーチンは、1947年にジョージア州に生まれ、高校時代に野球で活躍。高校卒業後の1965年にMLBドラフト3巡目でレンジャーズの前進ワシントン・セネタースに入団した。
だが、入団直後にベトナム戦争の課せられ、マーチンは2年ほど戦地に渡った。この戦争によるアメリカ兵の戦死者は約6万人といわれており、死と隣り合わせのベトナムで過ごしたマーチンは、常に鉄兜を被って身を守っていたという。
帰国後、1968年にメジャーに昇格したが、主に代打の9試合出場にとどまり、以降はマイナーやメキシカンリーグなどでプレーする不遇時代が続いた。
それでも愚直に野球と向き合ったマーチンは、1972年にパドレス傘下の3Aハワイ・アイランダーズで本塁打王と打点王の二冠を獲得。ちょうどこのときに、日本では中日の監督に日系人の助っ人だった与那嶺要が就任した。
ハワイ出身の与那嶺はマーチンの噂を聞きつけ自ら視察に出向くと、その長打力に惚れ込んでスカウトする。与那嶺の熱意に押されたマーチンは中日への移籍を決意したのだ。
得意の固め打ちでスタンドインを連発
与那嶺の肝いりで入団したマーチン。身長189センチ、90キロと大柄ではあったが、スロースターターで真面目な性格だったため、周囲の期待度はさほど高くなかった。
そこで与那嶺は日本流のハードな練習を課し、主砲として大成させるために荒っぽい打撃の矯正に努める。すると開幕から6試合目のヤクルト戦で3打席連続で豪快な2ランという大爆発を見せた。
左打者のマーチンは、もともと引っぱり専門の典型的なプルヒッターだが、与那嶺の指導によって荒っぽい部分が軽減されてシャープさが増した。パワーは申し分なかっただけに、芯で捉えれば簡単にスタインドインさせるポテンシャルを持っていたのだ。
5月からは4番に固定されたマーチンは、谷沢健一や井上弘昭らとクリーンアップを形成。「ミスタードラゴンズ」こと1番・高木守道が出塁し、クリーンアップが返す攻撃パターンを確立して首位をひた走った。
その原動力はなんといってもマーチンだ。好不調の差が大きい選手ではあったが、本塁打を打ち出すと連発する固め打ちはチームに勢いをもたらし、不調時でも選球眼の良さと三振の少なさで打点を稼ぐ貢献ぶりを見せている。
こうして名古屋のファンを喜ばせた1年目のマーチンは高い長打力の才能をいかんなく発揮し、打率・269、35本塁打、87打点と周囲を驚かせる成績をマーク。チームは最後まで首位を守りきり、20年ぶりのリーグ優勝と巨人のV10を阻止する原動力となった。
翌シーズンはやや成績を落としたが、1976年は王貞治、ランディ・バースと並ぶ1試合2本塁打以上を10回も記録。その内の3回は1試合3本塁打と固め打ちを披露して、キャリアハイの40本塁打、104打点と打ちまくった。
まさかの解雇劇にファンが猛抗議
異国で成功を収めたマーチンは、大の親日家となって家族で名古屋に移住する。地元のファミレスでファンに会うと写真撮影やサインに喜んで応じ、妻の出産も名古屋の病院で行った。それまでの中日には球団の顔といえる助っ人外国人がいなかっただけに、ファンからの支持は絶大なものだった。
それだけに1977〜1978年も変わらぬ貢献をしたマーチンが解雇になると、球団事務所にファンからの抗議電話が殺到する。契約問題のもつれでの解雇劇であり、ファンの抗議や著名活動もむなしく、マーチンは中日を去った。
1979年は大洋ホエールズで1年間プレー。打率・254、28本塁打、83打点の成績で衰えを感じさせなかったが、タイトルが取れないことを理由に解雇。当時は王貞治が健在であり、新鋭の山本浩二や掛布雅之もいたため、日本での6年間でタイトルを獲得することはなかったのだ。
なお、マーチンはベトナム戦争で鉄兜を被り続けたためにハゲ頭となったというが、髪の毛の薄さを誰よりも気にしていた。象徴的なエピソードとして、攻守交代時のヘルメットから帽子への早替えは名物となっており、この名人芸を同じく薄毛に悩んでいた山下大輔に伝授して帰国した。
現役生活に別れを告げたマーチンは、アイダホ州で農場を経営。バイクが趣味だったこともあり、リーグ優勝時に中日の後援会長だったスズキのバイクをプレゼントされ、帰国も大事に乗り続けたという。
公開日:2024.02.21