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1年目は期待はずれも2年目でセーブ王に輝き、中日最強のストッパーとなった「韓国の至宝」!宣銅烈

Text:橋本雅生

助っ人外国人列伝/中日ドラゴンズ編

日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ選手を紹介する。

2年目でセーブ王に輝いた中日最強のストッパー!宣銅烈

【投手第2位】宣銅烈

〈NPB通算データベース〉
・勝利 10勝
・敗戦 4敗
・セーブ 98S
・防御率 2.70

超人的な成績を残した「韓国の至宝」

現在ではスポーツや文化での交流が盛んな日本と韓国。だが、過去の歴史的な問題もあり、30年ほど前までの韓国は「近くて遠い国」とされていた。

野球界でその風穴を開けて日本にやって来たのが宣銅烈(ソン・ドンヨル)である。1963年に光州市で生まれたソンは、投手として高校時代に全国制覇、高麗大学では1年のときにU-18野球ワールドカップで優勝するなど、すでに大器を予感させる実績を残していた。

その噂はアメリカに届き、ヤンキースやドジャースなど人気球団からオファーを受けたが、当時の韓国球界には海外でプレーする慣例がなかった。そのため、ソンは社会人野球を経て、1985年のシーズン後半にヘテ・タイガースに入団する。

持ち前の制球力とキレ味鋭いスライダーを武器に1年目から最優秀防御率のタイトルを獲得すると、翌年からの成績があまりにも圧巻だ。1986年は先発として262回を投げて、防御率は脅威の0.99を記録。勝ち星は24勝に214奪三振で投手三冠に輝き、ソンは入団2年目にして「韓国の至宝」となったのだ。

以降も1995年までに最多勝5回、セーブ王2回、最優秀防御率7回、奪三振王5回、MVP3回など、ほかの投手に追随を許さない成績を残す。ほとんど点数を与えないの超人ぶりに、相手チームはソンが登板すると帰宅の準備を始めたほどだった。

1年目は期待はずれも2年目に本領発揮

韓国球界であらゆる偉業を達成したソン。他国での高い評価が伝わってくると海外移籍の意識が高まり、ついにマスコミの前で「日本でプレーしたい。行けないなら引退する」と発言する。

前例がない韓国プロ野球からの移籍に球団は引き留めたが、韓国国民の世論がソンを後押しして移籍を容認。当初は巨人の入団がほぼ決定といわれていたが、その他複数の球団が獲得競争をした末、1996年から中日でプレーすることが決定した。

韓国のプロ野球選手の海外初挑戦は大きな注目を集め、気合い充分で来日したソンに取材陣が殺到。慣れない日本の環境にも戸惑っている最中、ソンの母親が急死して緊急帰国するなど調整が遅れてしまう。

それらのことが影響してか、ソンの来日初登板はいきなりセーブを失敗。そして、4月半ばの巨人戦では韓国時代にほとんど打たれたことのない本塁打を落合博満とシェーン・マックから被弾してしまい、そこに絶対的守護神の面影はなかった。

その後も調子が上がらないソンは、右肘痛や腰痛で登録を抹消され、復帰後に先発器用されるも大炎上と、かつて経験したことのないほど苦しいシーズンを送る。予想外の結果に韓国マスコミから厳しい批判を受け、ソンは「引退」が頭に過ぎったという。

だが、「生きる伝説」とも表された英雄は、やはり並の選手ではなかった。帰国せず自主トレに入り、オフを返上して日本野球の研究と日本語習得に励むと翌年に完全復活を遂げる。

150キロ強の速球とほぼスピード差がない縦と横の高速スライダーはキレ味を取り戻し、何よりも自慢の制球力が冴え渡る。どんな強打者が相手でも翻弄するピッチングはまさに圧巻の一言だった。

1997年のシーズンは守護神としてマウンド守り続け、打者232人と対戦して被本塁打0。38セーブ、防御率1.28の成績でセーブ王に輝き、前年の汚名を返上している。

最強のストッパーのまま現役を引退

こうして完全復活を遂げたソンは、横浜ベイスターズとの優勝争いを演じた1998年も29セーブ、防御率1.48の高成績を上げる。後のインタビューでソンは、「1997年から広いナゴヤドームになって、インコースに思い切って投げ込むことができた」と語っており、球場が変わったことで思うような投球ができたのだろう。

36歳の年齢で迎えた1999年は全盛期よりも安定感が薄らぎ、6月に3連続で救援失敗したことで引退を決意。だが、ブルペンの精神的支柱としてのソンの存在感は大きく、指揮官の星野仙一から慰留されて再びマウンドに上がった。ペナント後半から守護神に復活したソンは28セーブを挙げ、11年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献して胴上げ投手になっている。

多少の衰えがあってもまだまだ一線級の力を見せたソンに、球団は選手兼任コーチでの契約を打診。ほかにメジャー球団からも声がかかっていた。だが、ソンにはファンに衰えた姿を見せたくないという信念が強く、球団は意思を尊重して契約を断念。飾らない性格で親日家だったソンはその風貌から「名古屋のアンパンマン」としてファンから愛され、惜しまれつつ現役を引退している。

引退後、2003年に自費で中日にコーチ留学し、指導者の道を歩み始める。勉強家のソンはロジックに基づいたコーチ学を身に付け、2005年にはサムスン・ライオンズをリーグ制覇に導いている。以降もWBCや五輪のコーチや監督を務めるなど、指導者としても多くの実績を残した。

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