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「ここで野球ができるのだろうか…」北海道赴任で見た衝撃の景色とは!?【東農大オホーツク流プロ野球選手の育て方】

Text:樋越勉

衝撃の景色

1990年5月26日、私は北海道へと旅立った。東京農業大学生物産業学部(現東京農業大学北海道オホーツクキャンパス)に赴任するためだ。当時、東京から女満別空港への直行便は無く、新千歳空港からはプロペラ機で飛んだ。窓の下に見えるのは、住宅はまばらな広大な大地。東京育ちで生まれてからの年間を都会で暮らしていた私にとっては衝撃的だった。

「ここで野球ができるのだろうか……」そんな不安に駆られたことを33年以上が経った今もハッキリと覚えている。

私は1週間前まで農大の世田谷キャンパスの硬式野球部でコーチを務めていた。その時に出された辞令から1週間の出発だったため引っ越しの準備すらできず、ユニフォーム2着と野球道具一式のみをバッグに詰めていた。

世田谷キャンパスの硬式野球部は「戦国」とも称される東都大学野球連盟に所属。「学生野球の聖地」神宮球場を東京六大学野球連盟とともに本拠地とする大学球界を牽引するリーグだ。

一方で、これから私が赴任する北海道オホーツクキャンパス(以下、オホーツク)の野球部は北海道学生野球連盟に所属。今でこそ私が約30年率い、OBの三垣勝巳が後を継いだオホーツクが全国大会上位に進出することは珍しくない。また、苫小牧駒澤大(現北洋大)の右腕・伊藤大海くんが2020年のドラフト会議で日本ハム1位指名を受けるまでになったが、当時は六大学や東都といった中央球界からは大きく後れを取る存在だった。

オホーツクキャンパスの硬式野球部創部は平成元年に創部。翌年から強化が始まり私に白羽の矢が立った。4部リーグを制して3部リーグに上がってはいたが、東都で現役時代とコーチ時代を過ごした私からすると、まるでサークルや草野球のような雰囲気に映った。

初めてグラウンドが車から目に映った際、その白さに「5月なのにまだ雪が残っているのか」と思っていたら、白いぺんぺん草だった。雑草が生い茂り、野球場と呼ぶにふさわしいものではなかった。職員にとって異動の辞令は絶対だが、大きな不安が募った。

農大との縁は、私が通っていた日本学園高校(東京都世田谷区)の校友会の理事が農大の学長(鈴木隆雄先生)だった縁から始まる。正直なところ、明治大に行きたくて野球部のセレクションにも行ったのだが、夜間学部の枠しか当時はなかった。受かったのは政治経済の2部。夜間学部だったことで、母親は教員免許を取れないことを懸念した。

5歳の時に父を亡くして貧乏だったが、母は女手一つで私と姉を育ててくれた。母はもともと教員になりたくて、私には教員を取って欲しいという願いがあった。また、鈴木先生も「理科の教員免許を農大で取って日本学園に帰って来い」と言ってくださった。貧しい中、親に苦労かけてまで大学に行かせてもらったので逆えなかった。

ただ、もし明治に行っていたら野球を続けていたかどうか。農大で人に恵まれたからここまで野球を続けてこられていると思う。俺を入れてくれた松田藤四郎理事長(当時)はお子さんがいなかった分、特に私を子供代わりに可愛がってくださったし、「北海道でチームを作ってこい」と言ったのも松田先生だった。人との巡り合わせで人生がここまで変わるのか、と自身でも感じたことが、その後の選手発掘・育成、チーム強化に繋がっていった。

出典:『東農大オホーツク流プロ野球選手の育て方』著/樋越勉

『東農大オホーツク流 プロ野球選手の育て方』
著者:樋越勉

多くのプロ野球選手を輩出する北の最果て、北海道網走市にある東京農業大学オホーツクキャンパス野球部。恵まれた施設環境ではないにも関わらず、なぜ有力選手が育つのか⁉東農大学野球部のカリスマ、樋越監督の選手を見抜く眼力と、その育成術を紹介‼プロ野球選手の育て方、ドラフトへ送り込む手腕、練習環境の整え方などを、具体的に解説するプロ野球ファンや指導者必見の一冊。愛弟子の周東佑京のコメントも収録。

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