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足利義政は日本史上、屈指の暗君だった?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

無定見かつ無責任極まりない暗君

15代まで続いた点は同じでも、江戸時代の徳川将軍と比較すると、室町時代の足利(あしかが)将軍の影はやはり薄い。そのなかにあって、室町幕府の8代将軍足利義政(よしまさ)は比較的知名度の高いほうに分類されよう。

3代将軍義満(よしみつ)の北山文化に対し、義政は銀閣寺に代表される東山文化の中心にいた人物だが、彼の名は文化的な功労者としてより、むしろ日本史上屈指の暗君(あんくん)として、人々の脳裏に刻まれている。京都の中心部を序盤の主戦場とした応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱において、仮にも将軍という責任を負うべき立場にいたのだから。

応仁・文明の乱は応仁元(1467)年に始まり、終結したのは文明9(1477)年のこと。将軍を支えるべき三管領(さんかんれい)の一つ畠山(はたけやま)氏の継嗣(けいし)問題に端を発し、同じく三管領の一つである斯波(しば)氏、さらには将軍自身の継嗣問題などが複雑に絡み合った結果、戦火は京都から全国規模に拡大した。

初代の尊氏(たかうじ)や3代目の義満のような、才気・覇気溢れる先祖とは似てもにつかず、8代将軍義政は豪壮な建築物で自己を飾ることにしか関心を示さず、政治においては周囲の意見に流されやすく、決定を二転三転させることを恥としなかった。

自身になかなか男子ができないことから、弟の義視(よしみ)を後継者にするが、妻の日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を産み、富子に迫られるや態度を変えた。これにより生じた義視との軋轢(あつれき)が、応仁・文明の乱誘発の一因となった。このように義政はおよそ主体的に動くことのできない無定見(むていけん)かつ無責任人な物だった。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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