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山名宗全は、応仁・文明の乱の終わりを見ずに隠居?【戦国武将の話】

Text:小和田哲男

責任感の強さゆえに精神を病んだ

応仁・明の乱をとことん単純化すると、対立の当事者は東軍総大将の細川勝元(かつもと)と西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん)の2人といえる。細川氏が幕府を支える三管領の一つなら、山名氏も同じく四職(ししき)家の一つだった。

足利氏の股肱(ここう)の臣である山名氏は、2代将軍義詮(よしあきら)の代には一族全体で11カ国の守護職を占め、「六分の一殿」と称された。しかし、3代将軍義満(よしみつ)から警戒され、一時は低迷したものの、6代将軍義教(よしのり)を弑逆(しいぎゃく)した播磨(はりま)の赤松満祐(あかまつみつすけ)を攻め滅ぼしたことで、宗全の代には往年の勢威を完全回復させた。

応仁・文明の乱前夜の幕府では、政所執事(まんどころしつじ)で義政の実子義尚の傅役(もりやく)でもある伊勢貞親(いせさだちか)を頭とする勢力と細川勝元を頭とする勢力、山名宗全を頭とする勢力が三者鼎立(ていりつ)の状態にあったが、文正元(1466)年に起きた政変で貞親の権勢が失墜。均衡が大きく崩れたことで、何かきっかけさえあれば、細川・山名両雄の直接対決が避けがたくなった。

当事者意識が希薄で、気楽に構えていられた将軍義政とは対照的に、一族と与党の命運を双肩に負う形の宗全は相当な重圧を感じていたはずで、勝手な行動に走る者や寝返る者が続出するに及んでは心身の疲労が蓄積するのも無理はなかった。

文明4(1472)年4月以降、狐に憑依(ひょうい)されたとか、切腹を図ろうとしたなどの噂がたびたび流布した。同年8月に家督を孫に譲り、完全な隠居を決めた事実からすると、戦の指揮を続けられる状況になかったのだろう。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 戦国武将の話』
著者:小和田哲男  日本文芸社刊

執筆者プロフィール
1944年、静岡市生まれ。静岡大学名誉教授。文学博士。公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史で、戦国時代史研究の第一人者として知られている。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」およびNHK Eテレ「知恵泉」などにも出演、さまざまなNHK大河ドラマの時代考証を担当している。


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