ドラフト指名の瞬間を「全裸」で迎えた理由! 巨人、高梨雄平投手の連載日記「ナシさんのアリな話 鉄腕奪取」第4回!

第4回 ドラフト指名の瞬間を「全裸」で迎えた理由

横須賀線の車内で、プロ入りを決意

2016年のドラフト会議。僕は東北楽天ゴールデンイーグルスから9巡目で指名を受け、プロ入りします。「プロに行きたい」という気持ちは子どもの頃からずっと持ち続けていましたが、本気で「プロに行かなければ」と決意したのは社会人に入ってから。

忘れもしない、武蔵小杉駅から横浜まで横須賀線で通勤したときのことです。満員電車の中で、人の波に押しつぶされそうになりながら「この生活をあと40年続けるのは無理だ……」「絶対に、プロに行かなければ」と決意したんです。

当時、JX-ENEOSという大企業で社会人野球を続けていた僕には、プロに行けなくても社会人で野球を続け、現役引退後は会社員として社業に専念するという未来もあったかもしれません。ただ、僕にはそれが向いていなかった。

人に言われた仕事を、時間やルールに縛られながらこなすことに、苦痛を感じてしまうことがありました。ただ、別に理不尽に耐えることやルールを守ることが苦手、というわけではないんです。

たとえば、「試合で投げられる」「野球が続けられる」のであれば、どんな理不尽にも耐えられるし、どんな厳しいルールだって守ります。実際、学生時代もそうやって過ごしてきました。

要は自分のベクトルがどこを向いているか――。当時の僕は野球のためならなんだってやれるけど、会社員の仕事に同じようなベクトルを向ける想像ができなかったんです。

高梨雄平投手の連載日記「ナシさんのアリな話 鉄腕奪取」

プロ入りできなければ、引退も覚悟していた

社会人でもなかなか結果が出せずにいた僕は、ドラフトでの指名でプロ入りを目指すと同時に、野球選手としての身の振り方も考えていました。冗談でもなんでもなく「指名されずに今季が終われば、選手としてはクビかもしれない……」と覚悟もしていたんです。まぁ、そんなドラフト候補生はほとんどいないんですけど……。

なので僕は、野球選手としては非常に珍しい「社会人野球をクビになった後のセカンドキャリアを考えながら、プロ入りを目指す」という立ち位置でドラフト会議を迎えることになります。(ここではわかりやすくセカンドキャリアという言葉を使っていますが、実はセカンドキャリアという言葉は好きではないのです。その理由はまた、コラムでお話しできればなと思っています。)

高梨雄平投手の連載日記「ナシさんのアリな話 鉄腕奪取」

ドラフト前、プロの各球団から届く「調査書」は、楽天からしか届きませんでした。なので、プロ入りできるとすれば事実上、楽天一択。ただ、自分の中では不思議でもなんでもありません。だって、社会人でもほとんど投げていなくて、3カ月前にサイドスローに転向したばかりの投手ですからね。

その時、チームの監督からは「指名するとしても下位。その場合、契約金も年俸もそこまで高くないと言われたけど大丈夫か?」と言われていましたが、僕はまったく気にしていませんでした。

これはプロ入り後に聞いた話なのですが、担当スカウトの後関昌彦さんは高校時代から僕に注目してくれていたそうです。メンタル面やマウンドでの立ち振る舞いを評価してくれていたみたいなんですけど、いかんせんスペックが足りなくて球団に推せなかったんだとか……(苦笑)。その意味で、ずっと見続けてくれた後関さんには感謝しかありません。

ドラフト当日は寮で会議の様子を見ていましたけど、6巡目で帝京大の鶴田圭佑が指名されたときに「アレ?」と思いました。彼は僕と同じ左腕だったので、冷静に考えたら「下位指名で左腕をふたり指名する可能性は低い」と感じたんです。

高梨雄平投手の連載日記「ナシさんのアリな話 鉄腕奪取」

指名をあきらめた……わけではなかったですけど、そこで会議を見るのはやめて洗濯物をたたみ始めました。なぜなら、このタイミングで僕にできることは何もないから。もし、ドラフト当日のこの瞬間も「アピール」ができて、それが指名にも影響するのであればなんでもやりますけど、そんなことはあるはずがない。見ても見なくても、結果は一緒です。じゃあ、今の自分に何ができるか……と言ったら、たまっている洗濯物をたたむことだったんです。ちなみに、そのときの僕は自分の部屋にいたので全裸でした……(笑)。

なので、自分が指名された瞬間は見ていません。部屋にチームメイトが入ってきて、指名されたことと、記者会見があることを伝えてくれたんですけど、僕は「全裸」で洗濯物をたたんでいたので驚かせてしまったと思います。

そんなこんなで、僕は晴れて楽天に指名され、プロ野球選手になることができました。ただ、大変なのはこれからです。なぜなら当時の僕は、「サイドスローに転向して3カ月しかたっていない、スライダーがまったく曲がらない24歳の投手」でしたから。

プロ入り後、僕がプロ野球という世界を生き残るために何を考え、何を実践したのか――。それはまた、次のコラムでお話しようと思うので、みなさんお楽しみに!

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