「弟子は一人もいない」親鸞が遺した、感謝と平等の教えとは【眠れなくなるほど面白い 図解 歎異抄】

親鸞には本当に一人も弟子がいなかったのか

第六条では「親鸞には一人も弟子がいない」と宣言しています。それには理由があります。

「念仏を唱える人はすべて極楽浄土へ行ける、幸せになれる」というのが親鸞の考え方ですから、念仏を唱える人は阿弥陀様の仲間であり、先生と弟子という関係はなく平等であると考えていたからです。

しかし親鸞は、彼のもとに集まってきた人たちに何も教えなかったというわけではありません。念仏を唱えることが極楽浄土への道なのですから、一緒に阿弥陀様を信じ、念仏を唱えることの大切さを教えていました。これは先生と弟子という関係ではなく、阿弥陀仏を信じる仲間という捉え方をしていたのです。

念仏の大切さを教えてくれる人と出会ったら、一緒に念仏を唱え、念仏の輪を広げることが多くの人たちが幸せになる道なのです。

大切なのは阿弥陀仏を信じる心や感謝をする心であると親鸞は説いています。

私(親鸞)の指導のもとで救われたのであれば、その人にとって私は師と呼べるかもしれません。しかし念仏を唱えることで、極楽浄土への道が開けた人を私が弟子と呼ぶのは不適切なのです。なぜなら念仏を唱えることによって極楽浄土へ導いてくれたのは阿弥陀仏であり、私ではないからです。

親鸞は「弟子が一人もいない」という言葉を通じ、人はみな平等であり互いに尊重し合うべきであることを教えています。困っている人がいたら手を差し伸べ、喜びや悲しみを分かち合い、感謝の気持ちを常に忘れてはいけないということも説いています。

親鸞のもとに集まった仲間と一緒に阿弥陀仏を信じ、一緒に念仏を唱えることが重要!

親鸞には弟子が一人もいない→念仏を唱える人は阿弥陀仏の仲間であるから師弟の関係はない

親鸞は先生と弟子という関係ではなく、阿弥陀仏を信じる仲間という捉え方をしていました。

多くの人たちが幸せになることができる

念仏を唱えて救われたのは阿弥陀仏の力によるもので、私(親鸞)の力によるものではありません!

ワンポイント!

阿弥陀仏の救いを信じて「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることを「専修念仏」と言います。「専修」とはひとつの道に専念するという意味があります。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 歎異抄』監修:山口謠司

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 歎異抄』
監修:山口謠司


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「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」――親鸞の死後に弟子の唯円が師の言葉をまとめた「歎異抄」。
仏教書の中でも、現代に必要とされる「安心」と「他力本願」の奥義がわりやすく、生きる力や癒やしにつながると根強い人気があります。700年以上前に親鸞が説いた、この今を生き抜くための名言には、「生きることはどういうことなのか」「信じた道をつき進めるか」「悪人こそが救われる」などという内容の言葉が書き起こされていますが、それは逆説的な意味合いを込めた、「明日を生きる力がわいてくる珠玉の名言」なのです。
日常生活に大いに役立つ歎異抄の世界。語り継がれる親鸞聖人の言葉は、現代社会に大きな影響を与えているといってもいいでしょう。
本書は歎異抄の世界をひもとき、親鸞聖人の考え方をどのように応用すれば、厳しい現代社会を生き抜くことができるかを、図やイラストをふんだんに使い、わかりやすく解説した一冊です。

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