釜本邦茂の伝説。メキシコの輝き【二宮清純 スポーツの嵐】


敵地で「ハポン!」コール
長嶋茂雄さんに続いて釜本邦茂さんまでも……。戦後80年、昭和のスポーツ界を牽引したスーパースターが、またひとり鬼籍に入った。
長嶋さんと釜本さんには共通点があった。引退後も現役時代と、ほぼ体型が変わらなかった。
それだけ節制していたのだろう。また、常に人から見られることを意識していた。それが“ミスタープロ野球”であり“ミスターサッカー”の矜持だったのだろう。
釜本さんがマークした日本リーグ通算202得点、日本代表75得点は、いずれも日本サッカーにおけるアンタッチャブル・レコードである。
Jリーグがスタートして30年以上たったが、未だに釜本さんを超えるストライカーは出現していない。
釜本さんのサッカー観は単純明快だった。
「点を取るべき人が取れば勝てる。取るべき人が取らないと負ける」
こうした思考の萌芽は、日本代表入りを果たした早大時代に見て取ることができる。
以下は早大の3年先輩にあたる松本育夫さんから、昔聞いた話。OBの八重樫茂生さんが1年生の釜本さんに「守備をしてくれ」と頼んだところ「先輩、FWは点を取ればいいんでしょ」と返したというのだ。これぞストライカーである。
キャリアのハイライトは、日本サッカー史上初の銅メダル獲得に貢献した1968年のメキシコ五輪だろう。
この大会で釜本さんは7得点を記録し、得点王になった。
銅メダルがかかった3位決定戦の相手は地元のメキシコ。アステカスタジアムに詰めかけた観客、実に10万人。
スタジアムは「メヒコ! メヒコ!」の大合唱で揺れた。0対0の均衡が破れたのは前半18分。釜本さんは相棒である杉山隆一さんのクロスを胸でトラップするや否や、左足を振り抜いた。続く39分、またもや杉山さんからの横パスを、今度は得意の右足で決めてみせた。
釜本さんは語ったものだ。
「当時の日本の攻撃は、基本的に“釜本と杉山の2人で行ってこい!”というもの。後の選手は守るだけ。あとで映像を見ると、ゴール前に映っていたのは、僕と杉山さんの2人だけだった」
試合は2対0で日本が快勝。地元チームの不甲斐なさへの意趣返しか、終盤には「ハポン(日本)!」コールが、スタンドの一部から巻き起こったという。
五輪前後、欧州や南米のクラブからオファーが届いたが、五輪翌年に罹ったウィルス性肝炎が挑戦を阻んだ。返す返すも残念でならない。