知られざる「すすきの」の始まり―― 札幌に“遊廓”を作ったのは行政だった!?【眠れなくなるほど面白い 図解 北海道の話】


人口わずか600人余りだった札幌に建てられたものとは?
官主導で設置された「薄野(すすきの)遊廓」
札幌の有名な歓楽街「すすきの」の歴史は古く、明治4年(1871)に始まります。
明治2年(1869)に開始された札幌本府の建設は、島義勇が解任されて一時中断していましたが、翌明治3年に岩村通俊が赴任してから再開されました。
開拓使は札幌の建設のために本州から大工や職人を呼び寄せましたが、厳しい労働環境と娯楽の少なさから、定住する人が少ないという課題がありました。また、そうした人たちを目当てに、飯盛女(私娼)を置く旅館が増え、取り締まりが難しくなっていました。
そこで、これらの問題を解決するために、官が認めた「薄野遊廓」が作られました。
遊廓ができたのとほぼ同時期である明治5年(1872)1月の札幌の人口は1022人で、男性が656人、女性が366人と、男女比は約3対2でした。
この男女の比率は、永住者だけでなく短期滞在者の場合もほぼ同じで、男性が多いことが治安の悪化につながったため、官は遊廓の設置を急いだと言われています。
同じ年、遊廓内には札幌初の芝居小屋「秋山座」が建てられました。また、明治5年に開拓使が東京から招いた蕎麦屋「東京庵」は、3年後に料理店も兼ね、札幌初の割烹店となりました。
札幌の街づくりと「薄野」
遊廓からネオン街へ
札幌に設けられた遊廓が「薄野遊廓」と名づけられたのは、建設に携わった薄井龍之の姓にちなんだと言われています。その後も、薄野には飲食店や劇場、妓楼(貸座敷)などが増えていきましたが、札幌市の市街地拡大および近くに小学校があったことなどから、大正9年(1920)に白石町(現・白石区菊水)へ移転。その後、遊廓跡にカフェーなどの飲食店が建ち並ぶようになり、現在のすすきのネオン街へと発展していきました。

官費で建てられた「東京楼」
明治5年(1872)、岩村通俊は政府高官を接待するための妓楼「東京楼」を建設。東京の品川から遊女を招き、優雅な花魁道中を催しました。その後も、榎本武揚、黒田清隆ら多くの高官が東京楼を利用しました。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 北海道の話』監修:和田 哲
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