ハニワ=茶色は嘘!? 実はカラフルだった国宝埴輪「挂甲武人」とは【眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話】

古墳時代の武人姿を完璧に具現した埴輪!

土色の埴輪は本来カラフルだった ── 挂甲武人(けいこうぶじん)

 「埴輪」の埴とは「赤い土」という意味、輪とは「取り囲む」という意味。つまり、赤い土で取り囲むとなる。何を? 墳丘墓とか、古墳である。結局、「何だ、色気がないな。面白くない」となる。ところが、地味な「赤い土」が面目一心。文化財活用センターが詳細な観察を重ね、蛍光X線解析を試みたところ、驚くべき事実が発見された。

 長い間、雨風にさらされ、土中に埋もれていた埴輪の表面に、もともと鮮やかな顔料が塗られていたことがわかったのだ。群馬県太田市飯塚町出土の国宝「挂甲武人」(古墳時代6世紀)である。白(白い土)、赤(ベンガラ)、灰色(白い土+マンガン)の3種類の顔料で彩色されて復元され、1500年の時を超えて鮮やかに蘇ったのである。

 埴輪の起源は考古学上、吉備の墳丘墓で出土したお供え用の器台とか、壺にあるとされている。それから発展した円筒埴輪と壺形埴輪が3世紀後半に登場。続いて家形、器材形、動物形が出現し、5世紀以降、人物埴輪がつくられるようになったというのが定説だ。注目されるのは、それが前方後円墳の広がりと軌を一にしているということ埴輪は備中から近江、奈良に広がっている

 こうした傾向は、吉備の豪族が大和朝廷と後世に呼ばれる王権形成に深く関わっていることを暗示している。また、5世紀後半、関東方面にも前方後円墳が築造されるようになり、群馬県保渡田八幡塚古墳では馬や鶏、猪などの動物埴輪が出土。埴輪の配列の仕方にも変化が生まれる。新しい地方権力の形勢が進んだものと見られる。冒頭に紹介した群馬県太田市出土の「挂甲武人」は、その象徴的な出来事だったのかもしれない。

※埴輪=土偶と同じ素焼きの焼き物だが、土偶は縄文時代の神様に祈願する祭祀用具。埴輪は古墳に葬られた死者を供養する祭祀用具。

埴輪 挂甲武人

武人を表す埴輪で、当時の正装と見られる武装姿だ。冑は「衝角付」で4世紀末からの古墳時代の中期に使用されていたとされる。衝角付とは冑の正面が舳先のように突き出した形状で、主に首長クラスの武人が被るものという。

甲は細い鉄板を閉じ合わせたもので、こうした型を「挂甲」といい、古代武人の主流の装備となった。太刀は反りのないまっすぐな直刀だが、これは奈良時代まで使われた刀の形状だった。

脚の部分は「佩楯」と呼ぶ太ももや膝を保護する防具を着装している。素材は小札、鉄や皮の小片、小さな鉄板、鎖などを綴じ付けたもの。平安時代には「膝鎧」と呼ばれた。脛を守る「臑当」も装着し、防備を完璧に整えている。また、弓を用いるため、背中には矢を収める「靭」を背負っている。

これらスタイルから、「挂甲武人」は、当時の武人の完璧な武装を示した埴輪といえよう。

【群馬県太田市飯塚町出土 埴輪挂甲武人】

昭和49年(1974年)に国宝指定/東京国立博物館所蔵

古墳時代(250〜538年)6世紀ごろの人物形象埴輪で、衝角付きの冑と小札甲と呼ばれる甲冑で武装している。古墳時代の埴輪では初の国宝指定。以後、令和2 年(2020年)に群馬県綿貫観音山古墳出土埴輪群(昭和57年/1982年発掘)が国宝に指定されるまでは、挂甲武人が唯一の国宝だった。高さ130.5cm、最大幅39.5cm。


にゃん太:挂甲武人ってかっこいいね。古墳時代の兵隊さんはあんな色の格好だったんだ!
わん爺:いやぁ、わん爺も驚いたよ。埴輪は茶色と思っていたから、まさか着色していたなんてびっくりじゃよ。だから、何がすごいかというと彩色されていた事実と写実的な造形、古墳時代の武人の装束や装備を具体的に伝えていることだろうのう。


【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話』著:鈴木 旭

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