【法隆寺の闇】聖徳太子の怨霊封じか? 国宝「釈迦三尊像」の急所に打ち込まれた謎の釘【眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話】

聖徳太子の怨霊封じか、法隆寺謎の仏像とは?

造像仏に隠されたダイイング・メッセージ ── 釈迦三尊像

 「釈迦三尊像」の正式な国宝の指定名称は、「銅造釈迦如来及両脇侍像」という。法隆寺※金堂の中の間に安置された本尊であり、木造二重の箱型台座に座る釈迦如来坐像を中心に両脇侍菩薩立像が並び立っている。

 ところで、平成2年(1990年)3月、釈迦如来像の台座の内側から「相見丂陵面楽識心陵了時者」という墨書が見つかった。書かれている内容が穏やかではない。ダイイング・メッセージの可能性もある。稲岡耕二博士(1929〜2021年)によれば、「陵面に相まみえよ。識心が陵にとどまるを願う時は」と読み下せるという。まだ解読が終わったとは聞いていないが、結果が気になる。

 ずいぶん前のことであるが、国際日本文化研究センター初代所長の梅原猛(1925〜2019年)が、「釈迦如来像の眉間の位置にある白毫を通常は膠などの接着剤で留められるはずだが、どうしたわけか釘で止められている。また、釈迦如来像を支える内部の板と像本体との留め方。ちょうど頭と心臓の位置で釘が打たれている…いずれも急所に釘を打つのは尋常な行為ではない、これは怨霊封じの呪詛行為ではないか」と推察した。

 誰の怨霊か? 釈迦三尊像の光背裏面に遺された銘によれば、西暦623年の前年に謎の死を遂げた聖徳太子のために鞍作止利仏師がこの像をつくった、とある。聖徳太子(574〜622年)の怨霊を恐れる人がいたのではないか、ということだ。何者かによって、聖徳太子は死に追いやられた可能性が否定できなくなったという。

 国宝とされる文化財の中にも、こうした歴史の暗闇が潜んでいるのかもしれない。

法隆寺=聖徳太子は飛鳥から斑鳩の里へ都を移すに当たって、仏教布教のため天皇の宮に隣接して斑鳩寺でらを建立した。それが消失したため、跡地に法隆寺が再建された。

釈迦三尊像

三尊蔵は、特に中尊は古代ギリシャのアルカイック期(前8〜前5世紀初頭)に見られる顔全体の感情を消し、口元にわずかな微笑を浮かべた「アルカイックスマイル」。顔の輪郭は面長で目は典型的なアーマンドアイ、小鼻が開いた鼻、口元はわずかに微笑む。飛鳥時代(592〜710年)の仏像の表情によく現れる形式

【法隆寺金堂 釈迦三尊像】

昭和26年(1951年)に国宝指定(国宝指定名称・銅造釈迦如来及両脇侍像/奈良県斑鳩町法隆寺所蔵)

飛鳥時代の推古天皇31年(623 年)に銅で造像された法隆寺金堂「中の間」の三尊像。構成は中尊に本尊釈迦如来坐像が置かれ、両横に脇侍菩薩立像が安置されている。左脇侍「薬王菩薩」、右脇侍「薬上菩薩」。渡来系仏師の司馬鞍作首止利の作。三尊像全体の後背に1 枚の大きな蓮の花弁のような蓮弁形光背(挙身光)、両脇時にも智慧の光とする宝珠形光背(頭光)が造形されている。三尊像は木造二重の箱型台座の上に設置。釈迦如来坐像の像高87.5cm、薬王菩薩92.3cm、薬上菩薩93.9cm、光背高さ177cm、台座最下部から光背最上部までは382.2cmの高さとなっている。


にゃん太:ねぇ、どうして三尊像がつくられたのかな?
わん爺 うむ、聖徳太子の母穴穂部間人皇女が亡くなったその翌年、太子と妃の膳部菩岐々美郎女が病に倒れた。そこで王子や諸臣が平癒を祈りつつ、万が一亡くなることがあれば浄土に往生するようにと発願し、太子の等身大の釈迦如来蔵像を司馬鞍作首止利につくらせた。2人とも同年に亡くなったが、三尊像は翌年に完成した。だから、三尊像は誰がつくらせたか、仏師、祈りの内容までわかっているいちばん古い仏像ということらしいの。


【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話』著:鈴木 旭

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話』
著:鈴木 旭


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