NPB史上初の1億円プレーヤー
人生に回り道など存在しない。道草は食えば食うだけ栄養になる――。
プロ野球で三冠王を3度獲得している落合博満の野球人生をたどると、そんな言葉が思い浮かぶ。
過日、ロッテ時代、落合に打撃を教わった愛甲猛に話を聞く機会があった。
「オチさんの右手首の強さと握力って尋常じゃないんですよ。バッティングはボールを押し込まないといけないから、後ろの手の力が必要になる。右バッターなら右手。あれはボウリングで鍛えたものだと思うんです」
落合が東洋大中退後、地元の秋田に帰り、プロボウラーを目指したのは、よく知られた話だ。
本人は自著『なんと言われようとオレ流さ』(講談社)で、こう述べている。
<郷里の秋田に帰って、毎日ブラブラしていた。当時ブームだったボウリングに明け暮れていたんだ。運よくちょうど、兄貴がボウリング場の支配人をしていたから、そこでアルバイトをはじめてね。
ピンをぞうきんできれいに磨きながら、「いっそのことプロボウラーになってやろうか」と考えたこともあった>
ボウリングブームのピークは、ちょうど落合が大学を中退し、秋田に帰ってきた1970年代前半である。
72年にはボウリング人口が1000万人、ボウリング場は4000近くに達した。
最大のスターは、女子プロボウラーの中山律子だ。
♪律子さん 律子さん さわやか律子さん
私たちの世代で、彼女が出演していたシャンプーのCMを覚えていない者はいないだろう。
その中山の後輩に杉本勝子という女子プロがいた。1981年、82年とWIBCクイーンズオープンを連覇したレジェンドである。
再び愛甲。
「その杉本さんが、ロッテの鹿児島キャンプに1日だけ飛び入りで参加した。で、休みの日、オチさんに“ボーリングに行こう”と誘われた。僕もついていったんですが、これがプロ顔負け。杉本さんに勝っちゃったんですから……」
この事実からも分かるように、仮にプロボウラーになっていたとしても落合は成功を収めていただろう。
しかし、ブームの頃も男子プロの年収は、トップクラスで1000万円程度。最多通算獲得賞金は酒井武雄の1億6000万円と言われている。サラリーマンと変わらない
落合がNPB史上初の1億円プレーヤー(1億3000万円)となったのはロッテから中日に移籍した86年のオフ。ボウリングで鍛えた右手のおかげだった。
初出=週刊漫画ゴラク2024年9月6日発売号