聖徳太子の妃が描いた理想郷? 太子逝去の悲しみを「天寿国」の刺繍に昇華させた理由と【眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話】

飛鳥時代の文化・風俗を伝える貴重な刺繍画!

聖徳太子の住む天寿国を刺繍して追慕 ── 天寿国曼荼羅繍帳

 中宮寺のホームページ「寺宝」を開くと興味深い記事が目に入る。「日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」(国宝)は、推古30年(622年)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子逝去ののち、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国のありさまを刺繍せしめられたものです」との記載文だ。

 聖徳太子を襲った不幸な死を悼しみ、極楽往生を願って天寿国の曼荼羅図を刺繍した橘大郎女の願意であり、制作意図であった。太子の母、穴穂部間人皇女(用明天皇皇后)が推古29年(629年)12月に亡くなり、翌年正月に太子が病気になると膳夫人( 膳部菩岐々美郎女)とされる妃の1人が共に病み、2月11日に妃が亡くなると22日には太子も後を追うように亡くなった

 太子の亡骸は母后および膳夫人と一緒に河内の磯長につくられた墓に葬られたが、斑鳩宮から20kmも離れた土地である。しかし、敏達天皇(538〜585年)や用明天皇(生年不詳〜587年)の陵に程近く、推古天皇陵と孝徳天皇(596〜654年)陵も営まれる二上山の西麓である。

 その地は極楽浄土の世界に例えられている。きっと「天寿国曼荼羅繍帳」を編んだ橘大郎女は「太子の御霊よ、安らかなれ」と願ったのであろう。

 制作当初は縦2m、横4mほどの帳2枚を横につないだ状態であったと推定されているが、現存する刺繍はごく一部にすぎない。それでも飛鳥時代の染織工芸、絵画、服装、仏教の信仰などを細かく知るうえで絶好の資料となっている。識者の間で驚かれているのは、色鮮やかな部分が飛鳥時代作で、そうでないところが遙かのちに補修した鎌倉時代作の箇所であったというところか。

中宮寺=法隆寺東院に隣接し、「葦垣宮、岡本宮、鵤宮の三つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にしたときに中宮寺と号した」(『聖徳太子伝私記』)

天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)

飛鳥時代に刺繍した亀の甲羅に「部間人公」の文字。
現存繍帳には亀が4か所に刺繍されている

中宮寺 天寿国曼荼羅繍

昭和27年(1952年)に国宝指定 / 奈良県斑鳩町中宮寺所蔵

聖徳太子には名前が明らかな后が4人いる。そのうちの1人、橘大女娘が、太子亡きあとに往生した天寿国を甦らせたいと願って制作させた天寿国曼荼羅繡帳。極楽浄土の様子を刺繍したもので、一般的には天寿国繍帳という。飛鳥時代の作だが、制作時は2つの帳とばりを繋ぎ合わせた縦2m、横4mほどのもので、宮廷装束の男女や100 体にも及ぶ亀が縫い込まれていたらしい。現存の繍帳は原本と鎌倉時代の模本の断片をつなぎ合わせたもので、縦88.8cm・横82.7cm。


にゃん太:「天寿国繍帳」っていろんな場面が合わさっていて、なんかわかりにくいな。
わん爺:う〜む。現在のは断片をつなぎ合わせたものだからな。つくったときは2つの帳で縦が2mで横が4mぐらいあったというな。
にゃん太:でも、どうしていまみたいに小さくなったの?
わん爺:そうじゃの。長年の劣化で傷んでいたが、修復しながら翌年に模本を作成した。ところが鎌倉時代の火災で両本とも大きく焼損したので江戸時代に原本と模本の断片を寄せ集めて貼り合わせたためだの。といっても、紫色などの平絹の撚糸を使って縫い取ったもので日本最古の刺繍らしい。そこがすごいのだな。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話』著:鈴木 旭

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 国宝の話』
著:鈴木 旭


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