「輪島と北の湖がいなかったら…」
小兵ながら相手の腰にくらいついたら離れない。そのしぶとい取り口から「ピラニア」の異名を取った大相撲の元大関・旭国(本名・太田武雄)が、さる10月22日、都内の自宅で死去した。77歳だった。
相撲人生のハイライトは1977年の9月場所だ。大関の旭国は14日目、13勝0敗で、同じ13勝0敗の横綱・北の湖と対戦した。勝てば自身初の優勝に大きく前進するとあって、立ち合いから積極的に前に出た。
回転のいい突っ張りから前みつを取って食い下がり、国技館を沸かせた。だが、最後は寄り切りに屈した。優勝したのは全勝の北の湖だった。
旭国にとっての不運は、同世代に北の湖、輪島という大横綱がいたことだ。
幕内での通算対戦成績は、対輪島が4勝31敗(決定戦含む)、対北の湖が7勝27敗。
「輪島と北の湖がいなかったら横綱になれていたのに」
そんな声がよく聞かれたが、それが運命というものだ。
もうひとつのニックネームである「相撲博士」は、どうすれば輪島に勝てるか、北の湖に勝てるか。それを考え続けたことで得た、名誉ある称号でもあった。
現役引退後は年寄り「大島」を襲名し、92年にはモンゴルから最初の入門者として元小結・旭鷲山、元関脇・旭天鵬ら6人の新弟子を受け入れた。
旭天鵬(6代大島親方)は17歳で来日し、大島部屋に入門したが、厳しい稽古や封建的な相撲部屋の生活に耐えられず、半年で脱走し、モンゴル大使館に逃げ込んだ。
モンゴルに帰国し、相撲とはきっぱり縁を切ったつもりだった旭天鵬のもとに、2カ月後、親方がフッと現れる。
「いくら何でも、ここはモンゴルだし、無理やり連れていかれることはないだろう、と思っていました。親方は“元気?”と声をかけてくれた。
別れ際“いい身体をしているんだから、頑張ったら強くなるよ”と言ってくれた。それを聞いて、父親も“もう1回頑張ってこいよ”と……」
かくして、再来日を果たした旭天鵬だが、待っていたのは兄弟子たちの“しかと”だった。誰も口をきいてくれなくなったのだ。
「それからは死に物狂いで稽古に励みました。先輩たちが食事に連れていってくれるようになったのは、そこからです。信頼を得ることができたんだと思います」
弔問に訪れた旭天鵬は、「モンゴル人力士が何十人もいるのは親方のおかげ。相撲界に貢献された方でした」と恩師への感謝を口にした。
旭国は、ある意味、モンゴル人力士たちの父親のような存在でもあったのだ。合掌
初出=週刊漫画ゴラク2024年11月8日発売号