助っ人外国人列伝/バファローズ編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ名選手10名を紹介する。
リーグ4連覇と日本一3連覇の立役者に!ボビー・マルカーノ
【6位】ボビー・マルカーノ
〈NPB通算データベース〉
・打率 .287
・本塁打 232本
・打点 817打点
先祖が日本人の助っ人外国人!?
オリックスの前身団体には、ブーマー・ウェルズ、ラルフ・ブライアントなど、豪快アーチをかっ飛ばした強打者が多い。一方、チャンス時の適時打で応えた巧打者の代表格と言えばボビー・マルカーノだろう。
1951年、ベネズエラで生まれたマルカーノは、高校卒業後に同国のプロ球団ラ・グアイラに入団し、1969年にアマチュアFAでアメリカのレッズに移籍する。だが、マイナーではシャープなバッティングでそこそこの成績を残すも、メジャーに昇格することはなかった。
その頃、第一次黄金期を築き上げた西本幸雄が監督を勇退。上田利治が後任を引き継いでいたのだが、1年目のペナントは2位に終わり、V奪還に向けて巧打の助っ人外国人を探していた。
上田利治は日系アメリカ人の元同僚で引退後にスカウトとして辣腕を発揮していた平山智に相談し、走攻守揃ったマルカーノの獲得を画策する。
この話はマルカーノが所属していたエンゼルス傘下の球団と阪急の間で進み、半ば強引に日本行きが決まってしまったという。メジャー昇格を夢見ていたマルカーノはショックを受けたが、家族や兄弟を養っていたため、年俸が2倍になるに阪急入団を受け入れた。
余談だが、マルカーノには「トモウラ(※浦本の変名)」という日本人風の苗字に似た先祖がおり、この人物が日本から上海に密航して南米に流れたという説がある。真偽は定かではないが、マルカーノの日本行きはこうした縁があったからなのかもしれない。
リーグ4連覇と日本一3連覇の立役者に!
1975年に阪急で第二の野球人生をスタートしたマルカーノ。もともと根が真面目なこともあり、メジャーに再挑戦する野望を抱きながら日本式の練習や風習に従い、懸命に努力を重ねた。
その努力が実ったマルカーノは、下位打順ながらチャンス時により力を発揮する勝負強さが光り、守備では堅実な二塁手としてほぼフル出場を果たす。
シーズン打率は.298と3割に届かなかったが、23本塁打&73打点でプレーオフ進出に貢献。後期優勝の近鉄とのプレーオフでは、プレーオフ首位打者と優秀選手となる活躍でペナント制覇に導き、広島との日本シリーズでも打率.346と暴れ回った。
それまでの阪急は5回のペナントを制するも日本シリーズで涙を呑んできたが、マルカーノの活躍によって広島を一蹴して悲願の日本一を達成している。
1年目から充実のシーズンを送ったマルカーノは、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。上田監督は最大の功労者にマルカーノの名前を挙げ、「今後10年間は二塁手を探さなくいい」と言わしめる獅子奮迅の活躍ぶりだった。
そして1976&1977年は5番打者に昇格。シーズン成績は1年目とほぼ変わらなかったが、ここ一番の場面や大舞台で結果を出す無類の勝負強さは頼りがいがあり、阪急ファンを大いに喜ばせたものである。
マルカーノの活躍でチームはリーグ3連覇を達成し、1976&1977年の日本シリーズは、長嶋茂雄が率いる巨人が相手だった。ここでもマルカーノは勝利をたぐり寄せる好打を連発して巨人を粉砕。結果的に阪急は3年連続日本一に輝いているが、マルカーノの存在なくしてこの快挙は達成しなかっただろう。
メジャーの夢を封印して日本に骨を埋めた野球人生
阪急入団4年目の1978年、マルカーノは遂に4番に座った。来日してから継続していたビデオによる相手投手の研究が実り、このシーズンはキャリアハイの打率.322、27本塁打、94打点の高成績を記録。念願だった打撃タイトルの打点王を獲得し、チームのリーグ4連覇に貢献している。
マルカーノのトレードマークと言える丸メガネをかけるようになったのはこの頃。練習中に負傷してしまい、手術後も視力が回復しなかったことで眼鏡をかけてプレーをするようになった。この怪我によってマルカーノはメジャー移籍を諦め、日本に骨を埋める決意を固めたという。
こうして阪急で確固たる存在感を見せたマルカーノは常に努力を惜しまず、日本人以上の真面目さが多くのファンを魅了した。
マルカーノは1983年からヤクルトに移籍し、日本球界で合計11年間プレー。すっかり日本に溶け込み、引退試合のスピーチでは涙を流しながら日本語の謝辞を述べている。
現役引退後は巨人の中南米スカウトとなり、ルイス・サンチェなどを送り込んだりしていたが、1990年に肺ガンで死去。神戸で行われた追悼式に参列した上田元監督やチームメイトが39歳の若すぎる死を悼んだ。
公開日:2024.02.01