助っ人外国人列伝/バファローズ編
日本球界を彩ってきた助っ人外国人選手たち。「ラブすぽ」が独自に選んだ名選手10名を紹介する。
メジャー球団と中日ではくすぶったがバファローズで大ブレイク!ラルフ・ブライアント
【2位】ラルフ・ブライアント
〈NPB通算データベース〉
・打率 .261
・本塁打 259本
・打点 641打点
メジャー球団と中日ではくすぶっていた強打者
オリックス編の第2位は、前回紹介したブーマーに勝るとも劣らない実力で暴れ回ったラルフ・ブライアント。所属していたのは近鉄だが、2004年にオリックスへ球団を譲渡したことから本企画は近鉄の助っ人外国人もランキングの対象としている。
ジョージア州出身のブライアントは、学生時代から野球以外にフットボールや陸上などで活躍し、大学時代はアメリカンフットボールの選手として注目を集めていた。
大学卒業後、ドジャースとツインズからMLBドラフトで指名されたがこのときはどちらの球団にも入団していない。翌1981年に再びドジャースから1位指名を受けたことでプロ野球選手の道を歩み始める。
後に日本でホームランキングとして君臨するブライアントだが、この頃は走攻守を見込まれたアベレージヒッターとして評価を受けていた。
しかし、ドジャースの期待とは裏腹に、ブライアントはメジャーとマイナーを行ったり来たりの低空飛行を続け、ポジションのかぶる大物選手のカーク・ギブソンがタイガースから移籍したことで出場機会が減ってしまった。
そこでブライアントはドジャースと友好球団だった中日関係者に自ら売り込みをかけ、1988年に移籍が実現する。気合い充分で日本に乗り込んだブライアントは、二軍のウエスタンリーグで4試合連続弾を放つなどの猛アピールをしたが、待ち受けていたのは助っ人外国人枠の問題だった。
当時のNPBは一軍の助っ人外国人枠は2人までとなっており、中日には主力投手の郭源治とクリーンアップを打つゲーリー・レーシッチがしっかりと鎮座していたのだ。そのため三振の多さを指摘されていたブライアントが中日の一軍に上がることはなかった。
移籍した近鉄でいきなり大爆発!
一軍に上がれず意気消沈していたブライアントだったが、6月に転機が訪れる。近鉄の主力打者として活躍してたリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕・解雇となり、その代役として名将・仰木彬監督が目を着けたのがブライアントだった。
ブライアントは185センチで細身の体型ながら、日本人にはない速いスイングスピードが魅力であり、仰木は潜在能力を高く評価していたのだ。
こうして金銭トレードで近鉄に移籍したのだが、ブライアントにとって幸運だったのは中西太ヘッドコーチとの出会いかもしれない。1950年代に西鉄の4番として本塁打王に5回も輝いた中西は、とにかく大振りだったスイングの矯正に努め、変化球が多い日本投手の特徴をアドバイスしたという。
するとブライアントは、これまで一軍に出られなかった鬱憤を晴らすべく、いきなり本塁打を量産する。一方で「ミスターK」や「大型扇風機」と揶揄されるほど三振も多かったが、途中加入後の74試合で34本塁打という脅威の長打力を発揮している。
時代が昭和から平成に切り替わった1989年の前半は、22試合連続三振を記録する不振に陥り、チームは首位から8.5ゲーム差の最下位争いに甘んじていた。
しかし、7月からブライアントが復調してシーズン3度の1試合3本塁打の固め打ちで猛牛打線に火がつくと、チームは連勝を重ねて首位の西武を猛追。10月12日の西武球場でペナントの行方を決めるダブルヘッダーを迎えた。
1試合目は0−4と近鉄のビハインドだったが、ブライアントが郭泰源からソロ&満塁の2発を放って同点に追いつくと、8回に渡辺久信から試合を決める3打席連続のソロホームランで逆転勝利を収める。つまり、この試合の全打点はブライアントの3打席連続本塁打によるものだった。
そして、ダブルヘッダーの2試合目でもブライアントの打棒は止まらず、第49号ソロ本塁打を放って4打数連続本塁打を達成する。勢いに乗ったチームは2連勝を飾り、近鉄は9年ぶりのリーグ優勝を決めている。チームを大逆転優勝に導いたのは紛れもなくブライアントであり、この年の本塁打王とMVPに選出された。
東京ドームの天井スピーカー直撃で特別ルールの本塁打
こうしてメジャーと中日でくすぶっていたブライアントは、近鉄移籍後わずか2年でNPBを代表する助っ人外国人へと成長した。1990年以降も東京ドームの天井スピーカーを直撃する前代未聞の一打で本塁打に認定されたり、千葉マリンスタジアムの電光掲示板を破壊するなど、現在でも語り草となる豪快弾が印象深い。
1993年には現在でも破られていないシーズン204三振の珍記録もあったが、同時に本塁打&打点の二冠王に輝くなど近鉄の主砲として1995年までプレーを続けた。
日本で大成功を収めたブライアントは、1996年に現役を引退。アメリカ帰国後はIT関連企業の役員を務めながら芝刈りの仕事をしてのんびり暮らしていたが、2022年に北海道フロンティアリーグ・士別サムライブレイズの監督として再来日。指揮官として采配を振るい、士別サムライブレイズをリーグの初代優勝チームに導いている。
公開日:2024.02.07