なぜ江戸っ子は大山を目指した?年間20万人が熱狂した大ブームの秘密?【眠れなくなるほど面白い 図解 神奈川の話】

江戸庶民の間で大ブームとなった「大山詣り」

庶民の信仰と行楽の旅

 江戸時代中期、社会が安定し庶民の生活に余裕が生まれると社寺参詣の旅行ブームが到来しました。もっとも人気だったのは伊勢神宮を参拝する「お伊勢参り」でしたが、伊勢は江戸から遠すぎます。そこで注目されたのが、比較的近場で、手形(通行証)なしでも参拝できる「大山」でした。

 丹沢山地の東南端に位置する大山は、海から吹く湿った風が山にぶつかることで雲や霧が発生しやすいため、古くから「雨降山」と呼ばれてきました。そのため五穀豊穣をもたらす雨乞いの神様として信仰を集め、また、修験者たちによる山岳信仰の地としても栄えてきました。

 徳川家康も大山寺を篤く信仰し、家康死後、家光の代の寛永15年(1638)には大山寺の伽藍が再興されるなど、大山は幕府の篤い庇護により発展。やがて五穀豊穣だけでなく、商売繁盛の御利益でも信仰を集めるようになりました。

 江戸時代中期には、江戸の町人を中心に「大山講」(講の中から代表者を選び、メンバーから募った旅費で参拝するしくみ)という組織がつ基础设施られるようになり、江戸から青山、渋谷、三軒茶屋、二子などを経て大山へ至る道は大山街道(矢倉沢往還)と呼ばれ、多くの参拝者で賑わいました。当時の大山詣りの人気はすさまじく、江戸の人口が約100万人の時代に、年間約20万人が訪れたともいわれています。

大山の信仰

大山信仰の歴史

 大山には、大山阿夫利神社と大山寺という2つの霊場があります。大山阿夫利神社は2200年以上前、崇神天皇の御代の創建と伝わり、山頂の巨石(石尊)を崇めたことが起源。山頂の本社と中腹の下社からなります。

 一方、大山寺は天平勝宝7年(755)、東大寺別当・良弁僧正の建立と伝わります。以降、大山は神仏習合の「石尊大権現」の名で信仰され、源頼朝などの武家からも武運長久の神として崇敬されました。明治の神仏分離令により、大山寺の建物や仏像が破壊されましたが、のちに再建。現在、両社寺は日本遺産「大山詣り」の構成文化財となっています。

東海道より古い「中原街道」

 徳川家康が東海道を整備する以前、江戸と相模国を結んだ主要道は中原街道でした。家康は江戸入府の際もこの道を利用し、その後も鷹狩などでこの道をよく利用したことから、小杉と中原に御殿が設営されました。東海道が整備されたあとも、脇往還や物流の道として機能しました。 

大山詣りと江の島詣り

 江戸時代には、男性の神様を祀る大山に参拝したあと、女性の神様を祀る江の島へ参詣する「両参り」が流行。どちらか一方だけを参拝することは「片参り」と呼ばれ、縁起が悪い、あるいは不完全であると忌避される風潮もありました。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 神奈川の話』監修:神奈川県立歴史博物館 館長 望月一樹

【監修者紹介】
望月 一樹(もちづき・かずき)
神奈川県立歴史博物館館長。昭和36年(1961)横須賀生まれ、鎌倉育ち。駒澤大学文学部歴史学科を卒業後、神奈川県史資料の整理作業に携わり、昭和63年(1988)に川崎市市民ミュージアムの歴史担当の学芸員、その後学芸室長となる。平成29年(2017)に横浜にあるシルク博物館の学芸担当課長、平成30年(2018)からは神奈川県立歴史博物館の学芸部長に就任し、令和3年(2021)から現職。学生時代は日本古代史を研究していたが、学芸員になってからは江戸時代を中心に川崎をフィールドとして調査研究を行っている。共著に『博物館の仕事』(岩田書院)など。また「律令制下における橘樹郡の様相」(『史叢』95号)や「ペリー来航時における川崎沿岸地域の様相」(『川崎市文化財調査集録』54集)など論文も多数。

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 神奈川の話』
監修:神奈川県立歴史博物館 館長 望月一樹


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