【コラム】ドリーさん死去 猪木との名勝負【二宮清純 スポーツの嵐】

偉大なるレスラー、グレート・テキサン!!

 一世を風靡した名レスラーが亡くなった。

 ドリー・ファンク・ジュニア。85歳だった。

 1950年代から70年代にかけて隆盛を誇ったプロレス・プロモーターの連合体NWA。そのトップに君臨する世界ヘビー級王者の威光は絶大だった。

 日本プロレスを創設した直後の力道山が、NWA王者のルー・テーズに挑戦したのも、箔付けの意味があったからだ。

 そのテーズからベルトを奪ったのがジン・キニスキー。テーズが「柔」なら、こちらは「剛」。ニックネームは「荒法師」だ。

 キニスキーの名勝負といえば、67年8月14日、大阪球場で行なわれたジャイアント馬場戦にとどめを刺す。なんと65分戦い、1対1の時間切れ引き分け。野球にたとえれば、最初から最後まで豪速球の投げ合い。生前、馬場は自らのベストバウトのひとつに、この試合をあげていた。

 ラフファイターながら、バックドロップやカナディアン・バックブリーカーといった大技も使いこなすキニスキーの牙城は堅固のように思われたが、69年2月、弱冠28歳のドリーによって突き崩される。

 ドリーの初来日は同年11月。日本プロレスの「NWA世界戦シリーズ」だった。そして12月2日、ドリーは大阪府立体育会館でアントニオ猪木の挑戦を受ける。

 猪木はこの年5月のワールドリーグ戦で初優勝を果たし、エースの馬場に肩を並べつつあった。ちなみにドリーは、来日するまで猪木のことを知らなかったそうだ。

 試合は果たして名勝負となった。クリーンファイトありラフファイトあり、立ち技あり寝技あり、小技あり大技あり。料理で言えば最上級のフルコースだ。

 ドリーの代名詞のスピニング・トー・ホールドは目が回るほどの速さで、これならテキサスの牧場で暴れる牛も観念するだろうな、と妙に納得したものである。

 余計だったのは、父のシニアの小細工だ。猪木がドリーをコーナーポストに叩きつけようとすると、サッとエプロンに立ち、クッション代わりになった。あるいは負傷していた猪木の指を狙え、と卑怯な指示を出したりもした。

 これには理由がある。全米をサーキットするNWA王者は、アウェーのベビーフェイスを相手にするためヒールでなければ務まらないという不文律があり、シニアがその役目を引き受けていたのだろう。

 結果は両者ノーフォールのドロー。珠玉の60分には、プロレスのあらゆるエキスとエッセンスが詰まっていた。

初出=週刊漫画ゴラク8月28日発売号

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