頼朝はなぜ鎌倉を選んだのか?守護・地頭の設置から見る日本初・武家政権の成立【眠れなくなるほど面白い 図解 神奈川の話】

鎌倉で誕生した日本初の武家政権

源平合戦と鎌倉幕府の成立

 平治元年(1159)、平治の乱で源義朝が平清盛に敗北し、源氏が事実上滅亡。しかし義朝の嫡男・頼朝は死罪を免れ、伊豆へ配流されました。

 それから約20年後の治承4年(1180)、頼朝は以仁王の令旨を奉じ、平氏打倒を掲げて挙兵するも敗北。房総半島に逃れた頼朝は、千葉常胤ら関東の有力武士を味方につけ、その勢力を背景に鎌倉に拠点を移しました。その後、勢いを盛り返した頼朝率いる源氏勢は、平氏を破って西へと進出。平氏が支配していた西国の荘園や国衙領を次々と接収し、配下である御家人に所領を安堵することで、武士の棟梁として地域政権を築いていきました。

 壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした文治元年(1185)には、頼朝は国ごとに「守護」、荘園ごとに「地頭」を設置する許可を朝廷から獲得。これにより軍事・警察権と税の徴収権を得て、実質的な独立政権である鎌倉幕府が成立したとされています。

 頼朝が鎌倉に幕府を置いたのは、三方が山、一方が海に面した敵の侵入を防ぎやすい地形だったためと考えられています。また、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点で、武士団を集結させるのに最適な地であり、京都から遠く離れているため、朝廷の干渉を避けて独自の政権を運営するのにも適していました。こうして頼朝は、日本史上初の本格的な武家政権を鎌倉の地に確立しました。

「天然の要塞」だった鎌倉

鎌倉の7つの出入り口

 鎌倉は三方を山、南を海に囲まれた「天然の要塞」でした。その鎌倉の出入り口として、鎌倉時代に山の稜線を切り開いて「切通」と呼ばれる道が整備されました。

 その代表的なものが、亀ヶ谷坂・化粧坂・巨福呂坂・大仏・極楽寺・朝夷奈・名越にある7つの切通で、「鎌倉七切通」や「鎌倉七口」などと呼ばれます。これらは単なる通行路ではなく、地形を最大限に利用した防御陣地でもあり、その周囲には防御用の断崖である「切岸」や、監視や攻撃のために土塁で囲んだ「平場」、敵の侵攻を妨害するための「置き石」などが設置されました。

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 神奈川の話』監修:神奈川県立歴史博物館 館長 望月一樹

【監修者紹介】
望月 一樹(もちづき・かずき)
神奈川県立歴史博物館館長。昭和36年(1961)横須賀生まれ、鎌倉育ち。駒澤大学文学部歴史学科を卒業後、神奈川県史資料の整理作業に携わり、昭和63年(1988)に川崎市市民ミュージアムの歴史担当の学芸員、その後学芸室長となる。平成29年(2017)に横浜にあるシルク博物館の学芸担当課長、平成30年(2018)からは神奈川県立歴史博物館の学芸部長に就任し、令和3年(2021)から現職。学生時代は日本古代史を研究していたが、学芸員になってからは江戸時代を中心に川崎をフィールドとして調査研究を行っている。共著に『博物館の仕事』(岩田書院)など。また「律令制下における橘樹郡の様相」(『史叢』95号)や「ペリー来航時における川崎沿岸地域の様相」(『川崎市文化財調査集録』54集)など論文も多数。

【書誌情報】
『眠れなくなるほど面白い 図解 神奈川の話』
監修:神奈川県立歴史博物館 館長 望月一樹


【Amazonで購入する】

とにかく広く、場所ごとにさまざまな面白さにあふれている神奈川。
観光、流行の発信地、デートスポットとしても人気の「横浜」をはじめ、「鎌倉・逗子」「横須賀」「箱根」などの多様な地理および歴史、さらに「相模原」「川崎」の大規模な政令指定都市(横浜を加えた3都市は全国で唯一)など、多彩な文化も魅力です。また、様々な分野において「日本初」「最古」「発祥の地」が多いことも特徴的です。
本書では、ガイドブックでは教えてくれない、地元民でも意外に知られていない「神奈川県」の文化、自然、歴史、食、交通、また隠れた興味深い事実まで、専門家がわかりやすく解説します。

この記事のCategory

求人情報

インフォテキストが入ります