【コラム】張本勲さん死去 日韓に架けた橋【二宮清純 スポーツの嵐】

日本球史に永遠に残る安打製造機

 日本プロ野球歴代最多の3085安打をマークした張本勲さんが、さる9月9日、都内で亡くなった。86歳だった。

 張本さんはいくつものハンディキャップや差別と戦いながら、それに打ち克ち、不滅の金字塔を打ち立てた。

 まずは4歳の時の大やけど。敗戦の色が日増しに濃くなってきた1944年冬、広島市に住む張本さんは、近くの子どもたちと“とんど焼き”に夢中になっていた。川べりの土手の上で焚き火をしながら、サツマイモを焼くのだ。食糧難の時代、子どもたちはそうやって飢えをしのいでいた。

 と、その時、バックしたトラックが焚き火に突っ込んできた。張本少年はつんのめるようにして、右手から火に飛び込んでいった。

 これにより、焼けただれた薬指と小指が癒着し、親指と人差し指にも障害が残った。

 この事故を機に、張本さんは「右利き」から「左利き」への転向を余儀なくされた。

 プロ入りしてからも、張本さんは右手を決して他人に見せることはなかった。唯一、人前で手袋を脱いだのは、自身が尊敬する“打撃の神様”川上哲治さんに対してだけ。

「よくまあ、この手で……」

 川上さんは涙を浮かべて、張本さんを励ましたという。

 被爆したのは5歳の夏。母親の順分さんに覆いかぶさられた張本さんは、九死に一生を得たが、勤労奉仕に出ていた6歳上の長姉は大やけどを負い、命を落とした。

 戦後、原爆で重傷を負った順分さんは張本さんら3人の子供を、ホルモン焼きの屋台を引きながら、女手ひとつで育てた。家は貧しく、トタン屋根で覆われただけのあばら家は、台風のたびに吹き飛ばされそうになった。

 苦労をかけた母親に「いい暮らしをさせたい」――その一心で、張本さんはプロ野球選手を目指すようになる。

 そんな張本さんの前に立ちはだかったのが、国籍の壁だった。当時の球界には「外国人選手は1球団に2人まで」という規定があり、韓国籍の張本さんは、これに抵触した。

 一肌脱いだのが東映の大川博オーナー。日本野球機構と交渉し、「出生時に日本国籍を持っていた選手」は外国人枠の制限の対象にならない、との協約改正を勝ち取った。

 1945年の終戦まで、朝鮮半島は日本の統治下にあったため、1940年生まれの張本さんは、日本国籍を有していたのだ。

 張本さんは2007年、日韓の球界の発展に貢献したことが評価され、韓国の勲一等にあたる「無窮花章」を韓国政府から授与されている。

 もう「喝!」が聞けないかと思うと残念でならない。合掌

初出=週刊漫画ゴラク8月28日発売号

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